珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

青い空のにおい

青い空とバキュームカー2台。

青空と言えば、ブルースカイにアカウントを作った。

パルのアカウントは目に入るもののほとんどが正直しんどくなり、こもしゃのアカウントは大半がリアルで接点がある人達だけになり、どちらにも書きたいことを書けなくなっていた。だから、本音だけを書く場所を作った。

誰も私だとはわからないと思う。一人だけ、ツイッタとブルースカイ両方フォローしてくれている方がいるのだけど、その人はほぼ青空の方はログインしてない様子だし、そのアカウントが私だと認識してフォローバックしてくれたというわけでもなさそうだった。なので、自由に心の内をぶちまけている。300文字という制限もまた、普段より(140文字)少しだけ広い部屋を別宅にしたようで、ちょっと楽しい。

せっかくだから、全くの別人になれるチャンスでもあるのに❝界隈❞の皆さんはツイッターと同じアイコンで同じ名前にする人が多いみたいだった。

 

冒頭のバキュームカーの写真は、河西緩衝緑地で撮った。和歌山でも久しぶりに見た。

都会の人は見たこと無いんだろうな、バキュームカー。地元に居た頃付き合っていた彼氏の親戚が、バキュームカー接触事故したことがあり「なんか煙が出てた」というコメントだけで延々と腹を抱えて笑っていたことを思い出す。

私が和歌山に住んでいた頃は、自宅の便器が水洗か否かに関わらず、どの家庭にもバキュームカーが来た。彼らは「汲み取りのおいやん」と呼ばれていた。おいやん、とは和歌山弁でおっちゃん、のことである。

し尿汲み取りのおいやんたちは、何故か毎回異常な早起きで家にやってくる。確か夏は朝五時半とかに現れた。夏は、とわざわざ書いたのには理由がある。バキュームカーの記憶が鮮明に残る季節なのだ。夏場、私はいつも窓を網戸にして就寝していた。明け方頃、群青色の空がほんのり淡いピンク色に変わり、小学校で飼われていた鶏がコケコッコーと鳴き始める時刻。夢うつつの私の鼻腔を、直撃するあの臭気、と、おいやんたちの凄まじいダミ声。なかば怒鳴るような大声で、おいやんたちが現れ、作業をしていく。とにかく眠りをそのにおいでさまされるあの体験は、下水道が整備された今ではもう二度と和歌山でも出来ることはないだろう。そしてわりとずっと、あのおいやんたちが私は怖かった。

まず、子供の頃から「汲み取りのおいやんには絶対に臭いというな、言ったらめちゃくちゃ怒られて、二度と家の便所を汲み取ってくれなくなる」とかなんとか、子供たちの間ではまことしやかにささやかれていた。実際どうなのかはしらないけれど、かなりコワモテの方々がおおかったように記憶する。念のために書いておくと差別的な意味でこんなことを書いているわけではなく、本当にある時期のあの人達は、そんな感じだった。

一般家庭では、そこまで頻繁に彼らが作業しに来ることはなかったが、全世帯、公共施設や事業所なども含めすべての建物のトイレには汲み取りが必要だったので、町を歩けばそこかしこにバキュームカーを見つけた。そんな場所で私は育った。2024年現在、和歌山の下水道普及率はやっと8割まで到達したという。それでも全国ワースト2位だそうだが、昔を知るものとしては、大きな変化を感じずにはいられないのだった、特に真夏の早朝は。

 

先週帰省したのは、入院する母を見舞うためだった。

少し時間があったので、私が通っていた幼稚園の近所に昔からある喫茶店に寄ってみた。

 

店内には猫がおり、完全に客がこないていで寛いでいた。それは店主のおばあちゃんも同じだった。私がお店に入ると少し驚いて、思い直したようにあれまあまあ、いらっしゃい、と言った。

店内には懐かしいストーブの香り。AMのラジオ関西が流れていた。私がコーヒーを飲みながら本を読んでいると、おばあちゃんが

「かえらしスカートはいちゃあらして(可愛いスカートを履いてるわね)、ほやけどそえ、裾が床へ擦っちゃあるで(だけどそれ、裾が床に擦ってるわよ)。えらいべっぴんさんやなあ、ダンスとかするんかい?」と話しかけてきた。

褒められてうれしかった私はありがとうと言い、このお店はいつからやってるんですかと訊いた。ここに住んでいたのだし、隣の幼稚園に通っていたからだいたい知ってたのだけど。

「どれぐらいやろねえ。もう、辞めたいって思うぐらい、ながーいこと、やってる。53年。」と。教えてくれた。

それから店を出て、これまた幼稚園の頃からある毛糸店の前を通り、実家に向かった。

 

コロナが第五類になっても、まだ面会に制限は多い。

病院へは、自転車で、冒頭の河西緩衝緑地内を通っていく。

あらためて、大きな工場だと思う。この工場とともに、この街の子供たちは育つ。工場の広大な敷地に沿った緑地すべてが公園で、そこが遊び場だった。

木々の間から、巨大な施設が見えるが、これはほんのわずかな一部に過ぎない。

日常でここまで大きな建物に囲まれることは、普通は無かったのだな。宝塚に嫁に来て、初めてそのことを実感した。故郷を離れずあの町で暮らす同級生たちはこの風景が特別だとはおもわずに今も過ごしているのかもしれない。

 

 

むかし、ここのスナックで同級生が働いていた。どうしてるのかな。

帰りは、新梅田食道街の潮屋でうどんを食べた。ここのうどんは本当においしいし安い。新梅田食道街全体がうまいわ安いわなので、平日でも行列が絶えない店も多い。たこやきの「はなだこ」は、えげつない混雑っぷりだった。美味しいもんなあ、あそこのたこ焼き。

潮屋のうどんも、麺がぶっとくて、お出汁が最高で、ほんますき。

帰りに、阪急梅田駅でミャクミャクさまのラッピングカーを見た。

そしたらなんと

到着した宝塚駅にもミャクミャク様がいた。

尚、母の手術は金曜日無事に済んだ。今は痛むけれど、快方に向かっているとのことだ。ラジオの好きな母は、伊集院のラジオを病室で聴いて笑ってしまって傷口が痛むと言ってた。父がとにかくうれしそうで、それもうれしかった。小泉構文みたいになったけど、本当にそうだから。


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