珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

葬式で笑う日まで


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さかのぼること9月、私は老人ホームにいる祖父と10月末に面会をする予約を入れた。コロナ以降、気軽に祖父母の面会に行くことができなくなり、最低でも一か月も前から施設に予約をとり、パーテーション越しに数分だけ話すのに、ここまでしないといけないことになってしまった。それもこれもコロナ対策なのだから仕方がないと言われればそうなのかもしれないけれど。

 

そして10月末の面会の日の前日、祖父は施設内で大腿骨を骨折した。さらにその日、施設でコロナが出たことによって濃厚接触者になってしまった祖父は、すぐに病院にいくこともできず、11月の初旬、奈良県内の病院に入院することとなった。

そして祖父と会って話したいという、私の願いは、その後、二度とかなうことはなかった。

 

12月3日までは苦しそうながらも、なんとか意識はあったという。

 

12月6日の家族LINE


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父と母は和歌山市から、妹は高野町から奈良の病院に向かった。

 

私はタイミング悪く、仕事でちょっとしたトラブルの対応に追われ、さらに娘の通院が重なり、この日病院に行くことができなかった。

いままでさんざん会いたいと言っても会わせてもらえなかったのに、意識がなくなりそうになってやっと会わせてくれるだなんて言われても。そんな憤りを病院には感じていた。腹をたてても仕方だ無いのだけど。

 

いや、無理をすればいけたのかもしれない。

でも、私は怖かった。この日祖父に会った他の家族はみな「苦しそうだった」と言った。苦しそうにしていない時は、寝ている時だけだと。

私は、私が行って何になる?と思った。苦しんでいるおじいちゃんの姿を受け止める勇気もなかった。

まだ行くのを迷っている、そう友人にLINEした。すると友人は「何ができるかとかそんな合理的なことは考えなくていいと思うよ」と返してくれた。迷っていると言っておきながら、私の心は決まっていたことを自覚した。明日会いに行こう。病院は奈良の山奥にあるのでどんなに急いでも帰りは遅くなることを見越し、義母に来てもらうことを頼んだ。仕事も休めるように段取りをした。

 

12月7日

 

早朝5時過ぎに病室の母親から連絡。声が涙で震えているのがわかった。

「おじいちゃん、いま、魂が体からすこしずつ出て行ってるんよ。でも、まだ声は聞こえてるから。あなたの声を、きかせてあげて。何か話しかけてあげて」

同じベッドで眠っていた娘も目を覚ました。そして、娘は声を上げて泣き出した。私はまだ頭が混乱して、何といってあげたらいいのかわからず、ただ、とにかく

「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼びかけた。そのうち涙がこみあげてきて、働かない頭でただひとこと「大好きやで。大好きやで、おじいちゃん」という言葉だけ絞りだした。娘もそう言っていた。

 

ともかく学校へ娘を送り出し、私は奈良の病院に向かった。大阪行きのJRに乗り、尼崎を過ぎたころ、祖父が息をひきとったという連絡が来たのだった。

窓の外に通り過ぎるグリコの工場をぼーっと眺めているうちに、電車は大阪駅に着いた。

そこからあまり意識のないまま、せっかく梅田まで来たのだからコーヒーでもと駅ビルに向かってみたり、かと思えばグランフロントに向かってみたり、阪急百貨店のROLEX売り場をうろついたり、かなりわけのわからない軌道を描きながら私は気付いたらホワイティのベルヴィルでモーニングを頼んでいた。

とりあえず、いつものようにパンケーキ二枚のセット、バターをたっぷりトッピングして注文した。

 

そして、ふと腕時計を見て、急に、涙がこみあげてきたのだった。その腕時計は祖父の形見だった。かくしてベルヴィルの店内で一人涙を流してる奇怪な中年女性は、そのあとトッピングまでしたホットケーキをほとんど食べることができないまま店を出た。残してしまったのが今も心残りだ。

 

帰りは阪急神戸線に乗った。そのまま今津線に乗り換えてから出勤して、翌日の葬儀で休むために最低限の仕事を済ませておかないといかなかった。この時期の印刷業は、とても忙しい。

 

今津線の最寄り駅から会社までは20分ほど歩くのだが、この間に、なんと私はこの日二度も宗教に勧誘されたのだった。ここに働き始めて5年ほどになるが、毎日通勤していてこんなことは初めてだった。たしかに私は、泣きながら歩いていたと思う。一人で泣ける時間なんてこの時ぐらいなのだから。

しかしああいう人たちの嗅覚たるや。

私は確かに泣いていたけれどマスクもしていたし、一応大人なのでそこまでわんわん大泣きしながら歩いていたわけではない。なのに「ご家庭で悩みとかありませんか?」って声をかけてきたのだ、あいつらは。すげえな。さすがに二人目に声をかけられたときはもう、なんか逆に感心しちゃって涙も引いたよね。悩み?ないよ。

あんたらの宗教も、死んだ人を生き返らせることはできねえだろう。

 

12月8日、12月9日

私の喪服のジャケットが見つからない。朝からバタバタ。ワンピースはあるのだけど、クローゼットの隅から隅まで何度見てもジャケットが無い。結局黒いカーディガンを羽織ることにした。

葬儀場に着くと、妹夫婦の姿が見えた。ちゃんとした喪服を着ている。ああ、しかも数珠をもっている。数珠、家族三人全員分忘れたよ。おじいちゃんなら笑ってくれるよね。

祖父の棺がおかれた部屋には、アルゼンチンタンゴの曲が流れていた。おじいちゃんが大好きだった、スペイン語のとても陽気な音楽。

それを聞いた瞬間、まだ対面もしていないのに、泣けてなけて。膝から崩れそうだった。音楽の力は、時に残酷だ。故人が好きだった曲を流すのはよくあることなのだと思う。おじいちゃんはこの曲が好きだった。あとはクラシックなら青く美しきドナウ、シューマントロイメライショパンノクターン2番。でもその曲調が明るく朗らかであればあるほど、胸が苦しくなるということを知った。お葬式に流すなら、ノクターンでも20番ぐらいの短調の旋律が良いのかもしれないと思った。

 

この日は、涙が枯れるほど泣いたのだけど、本当に悲しい日に違いなかったのだけど、とても良い日だったと、しみじみ思うのだ。

 

その理由はいくつかある。

まず、飾られた花。父方の祖父が亡くなった時は和歌山の葬儀場を利用したのだが、そこでは祭壇にたくさんの白い菊を飾っていたくせに、棺には少しの菊しか入れさせてもらえなかった。飾られた花はほぼ手付かずで放置された。おそらくあれは造花か、さもなくば次の葬式に使いまわすのだろうと思った。べつにそれで良いしそれがおかしいとか文句を言う余裕も家族には無かった。

 

しかし、今回のお葬式では、祖父のことを知る花屋さんが、白いストックと、良い香りのする白い百合、そして上品な薄紫のトルコキキョウをたくさん用意してくれた。

いかにも葬式です、みたいな菊ではなく、そのまま結婚式にも使えるような素敵なブーケをいくつも用意してくれて、それを最後はひとつ残らず棺桶に入れたのだった。

葬儀の花は菊で、使いまわされるんだろうとばかり思っていた私は、それだけでうれしかった。お花屋さんが奥の方で生前の祖父についての話をしているのが聞こえたのもうれしかった。葬儀社の社長さんも他の従業員のかたも、みな悲しんでくれた。そしてお別れの時間もたくさん作ってくれた。

お坊さんの話も、一つ一つ心をうつもので、母はとても感銘をうけていた。特に戒名について、「明るい人だった」ということでつけられたその名に、母は喜んでいたし、葬儀やさんも「うん、明るい人やった」と小さく頷くほどに、祖父は底抜けに明るい人だったのだ。こんなひねくれた私と、血が繋がっているとは思えないほどに。戒名なんて意味がないと思っていた。適当に死んだ人間に名前をつけてカネをとる簡単な商売だと思っていた。でも喜んでいる母をみて、そうじゃないんだと知ることができたのだった。

 

これだけ「特別扱い」されたのは、母がボソッと言うことには「だって〇〇家の葬式なんやから。」だそうだ。確かに、母の実家というか祖父の生家は、奈良県某市では歴史ある由緒正しい家柄なのであった。


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これは、私がツイッターで祖父の生家について呟いたときにフォロワーさんからいただいたリプなのだが、名前を出すと知っている人は「ひええ」となる家なのだそうだ。

 

だけど私の母は、それをアピールすることはまずなかった。

たしかに、家柄自慢なんて、無意味だ。

人間なんて目の前の本人が全てであり、見てもわからない血筋がどうのこうのと言うのは、まるでその場にない宝石を自慢するみたいで、今ここには無いけど家には沢山お金があるから私はすごいんですよ!みたいな、そんな話を他人にするのは虚しい。とたいうか母は宝石もブランド物も身に付けるもので血筋を誇ることもしないのだが。まあ、とにかくその○○家だから、良いお葬式にしてくれたのかな、と母は言ってたけど、それだけではないというのもわかっていただろう。だって、今回の葬式の喪主はうちの父親であり○○家の人が1人も来ない家族葬だったのだから。

それでもこんなに心を込めて葬儀を行ってもらえたのは、ほかでもない祖父の人柄なのだろうと思った。

 


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祖父の棺は、このマクドナルドのすぐ奥の火葬場で焼かれることになった。

火葬場についたとき、まだ火はついてないのだけど、なにかが焼けるようなにおいが辺りにずっと漂っていた。娘が「バナナケーキの匂いがするね」と言ったので夫がやめてくれ、と笑っていた。

笑うと言えば、意外とこういう日にも笑ってしまうことはしばしば起こる。例えば、この日うちの家族と火葬場でニアミスした一族がいたのだが、その人達の姿が凄かったのだ。

というのも、その一家の男性のうちの1人が烏帽子を被っているのである。

こんな時なのでジロジロ見るのは失礼なのだけど、私たち家族は全員一致で二度見していた。そして烏帽子以外の男性は紋付き袴を着ていた。おそらく天理教のお葬式の衣装だということだ。それについて、あとから会食した時に「みんなやっぱり気になってたよね?!」ということで盛り上がって笑ってしまった。

あとは、うちの父親はせっかちで段取りをすぐに無視してしまうのだけど、最後のさいごに、棺のお顔を見てあげてください、と火葬場の職員さんが棺の蓋をあけていたのに、父親はそれを見ずにさっさといってしまったのだ。その瞬間、全員が笑ってしまった。職員さんも吹き出していた。

 

遺体を焼く炉は三つ並んでいた。祖父は3と書かれた扉に入れられた。この瞬間が一番悲しいのだ。わかっていた。妹は、すかさず母の手をにぎってあげていた。私は片方の手をどうしようか迷った。こういう時さえ迷うのがどうしようもないな、と自分でも呆れてしまう。すると、私の横をすり抜け、片方の手を、私の娘がしっかりと握ってあげていたのだった。

この子がいてよかったなあ、と思った。

 

祖父の骨上げの時間まで、会食をすることになった。そこでも、みんな前の家族の衣装について喋ったり、緊張の糸が切れたように笑い合った。多分、こういう日にも笑いたくなるのは、防衛本能みたいなものなのかもしれないと思った。ずっと悲しいままだと苦しいから、体が笑いたがっているのかもしれないと思った。

夫などはあまりお坊さんにも思い入れが無いので「きょうのお経はライブバージョンでアレンジされてたと思う。CDで聞いてたやつと違う」「やっぱりオーディエンス(私たち家族)の数が少ないからライブもショートバージョンにされてると思う」などと言い始めたので私も「火葬場におった前の一家は大勢おったし、衣装も『ガチ勢』やったから、坊さんのお経もロングバージョン聴けたやろね」などとしょうもない話をして笑っていた。

会食をしたあとも、まだ時間があったので、私は一人で散歩をすることにした。祖父と二人で歩いた道を、一人で。ノクターン長調の2番と短調の20番を聴きながら。


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ここでよくたこ焼きを買ってくれた
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この店では牛乳とパンを買った。


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どこを歩いても、思い出しかない。

 

そうこうしているうちに、骨上げの時間になった。火葬場に戻ると、さきほど父のことを笑っていた職員さんが、お骨の説明をしてくれることになった。そのとき驚いたのが、そのかたが、祖父の骨を素手で持って説明し始めたことだ。肉親でもちょっと素手は抵抗があるのだが、その人は何のためらいもなく祖父の骨の説明を始めた。まずは恒例の喉ぼとけについて。そして、お墓に余裕がある場合は、箱につめられるだけ、好きなだけ骨を入れて下さいと言ってくれた。そんな、野菜の詰め放題みたいなこと言われましても、と思って、それもちょっと笑ってしまった。

骨上げは、足の骨から順番に上に向かって拾っていく。大腿骨付近には、数日前に手術で入れたばかりの人工関節が残っていた。「いれたばっかりやのに、もったいない」と父は言った。私は指の骨を拾う時、大好きなおじいちゃんの手を思い出して、また泣いた。そして最後は頭蓋骨。みんなでひとつずつ、丸いそれらを、被せながら箱に詰めた。そのあと最後に、職員のかたが上からおさえつけて骨をバキバキと砕きはじめたのだった。娘はその音がとても怖かったと言った。

ともかく、すべて、おわった。

 

その後、年金の停止の手続きやら、いろんなことをほとんど父母妹に押し付けて、私は一足早く日常と自宅に戻った。明日からまた仕事だ。気がかりな案件も放置したままである。なんというか、もうすっかり、すべて元にもどった。

 

でも、何の前触れもなく、思い出が胸をしめつけたりする。そっか、こんなふうにかなしみは、ふとした時にやってくるものなのだな。

お葬式は何度か出たことはあったけれど、ここまで好きだった人の死に向き合ったのは、今回が初めてだった。私は奈良の祖父のことが本当に好きだった。祖父の日記を本にして出版するほどに。

 

祖父の葬式の日、友達がこの記事を送ってくれた。

www.sougiya.biz

おじいちゃんを思い出すとき、そこに浮かぶのは記憶の中の幻ではなく、それはおじいちゃんそのものなのだということ。だから、私や家族、そして祖父の日記本を買ってくれた人たちの心の中にも祖父の像があるかぎり、祖父はそこにいるのだと思う。そう思う。

 

日記本といえば、祖父の本は大阪のシカクさんで販売してくださっているのだが、じつはシカクさんに委託をお願いする前に、東京の某本屋の委託フォームから祖父の日記本の販売の依頼を送ったのだ。二回も。しかし返事が来なかったので、実物を添えて店舗にもお送りしてみた。その上でオーナーさんにはメールもしてみた。しかし、一切の返事はいただけなかった。

まあ向こうも商売である。売りたくないものもあるだろう。だとしても。フォームをあのようなオープンなつくりにしておきながら、何の返信もないというのは、どうなのだろう、コミュニケーションとして、普通なのですか?

ちなみにあなたが売り物に値しないと判断した祖父の本、めちゃくちゃ売れてます。残念でしたね。嘘やと思うならシカクさんに問い合わせてみてください。

昨日まで綺麗な気持ちで生と死について考えていた私ですが、今日は奇しくもその店のツイートが流れてきたのでどす黒い気持ちでいっぱいになり、儚い想いはどこへやら。舐めた商売してる人の末路を見届けるまで俺は死なねえぞ、という決意でいっぱいになりました。

 

私、好きな人達より先に死んで、愛する人に私のために泣いてもらいたいんです。

 

でも、嫌いな人よりは、絶対長生きしたいんです。おまえの葬式、烏帽子でも十二単でもなんでもええから、ゲラゲラ笑うと決めたので。