珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

帰りの南海電車で書いた日記


今日は仕事を休めたので、母に会いに行った。会いたい人には会いに行け、と、鉄道員の歌詞にもある。だからというわけではないけど、なるべく私は会いたい人には会いに行くようにしている。

だっていつでも会えるというわけにもいかないから。今日も、仕事は休めたけれど、娘は遅くても五時には帰ってくるわけで、晩御飯の用意もあるし、いくら会社にいかなくても普通なら和歌山に帰る時間までは捻出できなかったのだ。

それが、今日は家を空けられた理由は、ひとえに夫の在宅ワークが増えたことによる。

夫が、週に一回でも、娘の帰る時間に家にいてくれる……!

このことが、私自身の働き方、普段の仕事の余裕、我が家のありかた、全てに革命をもたらした。

 

思えばここまで本当に色々あった。まず学童ワーストの宝塚において、例に漏れず私は学童に落ち続けた。夫のお母さんを呼びつけすぎて、そのことで揉めて夫婦の危機にも陥ったこともある。

夏休みなど長期休みは娘を会社に連れていって机の横に座らせて仕事をした。社長は娘を可愛がってくれたが、気も遣う&散るで、大変だった。

学童がやっと決まってからは、かなり楽にはなったが、保育所内の学童保育だったため、保育園に預けるママ達の不文律を知らなくてしくじったりもした。

 

保育園での暗黙のルールとは

 

毎日子供を預けて働くお母さん達は、主に2つの仕事を担っている。ひとつは勤務先の業務、もうひとつは家庭での役割である。そして後者の大きなタスクのひとつが「ご飯作り」である。さらに、ご飯を作るためには、買い物をしなくてはいけない。

勿論私はコープの個別宅配とスーパーの配送も利用していた。それでも、帰りに家事の一貫としての買い物をして帰らなくてはいけない日もある。

しかし、多くの保育園の場合、夕飯のためなどの買い物は、子供を引き取ってからやるようにという暗黙のルールがあるらしいのだ。私はそれを知らなくて、学童に、スーパーのふくろを下げて行ったことが何度かあった。遊びに行ってるわけではないし、自分の娯楽の買い物でもなんでもないのに、むしろ一仕事終えて献立を考えながら食材を探すのはしんどいのに、それは子供を預けてやることではない、と見なされている。そんなん知らんがな。でも、お迎えのときにスーパーの買い物袋をさげていくのは、良くないらしい。

 

残業を“絶対にできない”という苦しみ

子供のお迎えがあるお母さんは、残業ができない。絶対に、できない。このことが、日々どれほど精神的にも実務も大変か。どうしてもその日に終わらない作業もある。そうなると、お迎えの時間が迫れば迫るほど焦る気持ち。休憩もランチも削りに削りに、それでも足りない時間。

ああ、何も気にせず仕事だけに集中できたら、と何度思ってきたかわからない。

 

それが、今では週に一回程度だが、フリー残業dayが出来たのである。沢山悩んでデザインができる。納得いくまで見直しもできる。これがどれだけ贅沢で待ち望んだ環境か。

 

その他、在宅ワークの日が増えて家族三人揃って晩御飯を食べる日も増えた。皆で会話しながら作りたての晩御飯を食べられる喜び。娘の精神状態が安定してきたのも、こういう時間が増えたからのような気もしている。後片付けも、夫の帰りを待たず一度に出来るので家事がかなり楽になった。

もっと早く夫の在宅ワークが始まれば良かったのにと思うし、ずっと続いてほしい。

 

 

特に今思い返しても、子供が未しゅうえん児の頃の私はとても孤独だった。あの時、こういう時間があれば、と強く思う。あの日々を思うと、私の心には冷たい風が吹く。夫への不信感とか拭いきれない苛立ち、怨みのようなものが渦巻く。あのときどうして、ああしてくれなかった、こうしてくれなかった、そんな思いでいっぱいになる。夫の子育ては、良いとこどりだ。孫みたいに娘をかわいがって、さぞたのしいだろう。娘はかわいいもの。だけど子育てはそれだけじゃない。夫は私より早起きして娘をみてくれたこともないし、私は働いてなかったからそれらは当然だと思って全てを一人で抱えてきた。でもそれは、間違いだった。家事は今も私ひとりでやる、それはいいんだ。でも、子供のことはちがう。子供は、2人の子供なのに。あのころ、全部私だけ、ひとりで、苦しかった。あなたは仕事だけしていれば、よかったんだもんね、仕事って大変だけどたのしいよね、評価されてお金も貰えて、私もそうおもう。挙げ句土日まで放っておかれた日にはさ。

 

ああ、つい長くなってしまった。子育てする夫婦にとって、夫が家にいる時間が長いというのは、それだけで妻の心の安寧に繋がると思う。こころから思う。

 

お母さんの入院の話どこいった。