珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

青い空のにおい

青い空とバキュームカー2台。

青空と言えば、ブルースカイにアカウントを作った。

パルのアカウントは目に入るもののほとんどが正直しんどくなり、こもしゃのアカウントは大半がリアルで接点がある人達だけになり、どちらにも書きたいことを書けなくなっていた。だから、本音だけを書く場所を作った。

誰も私だとはわからないと思う。一人だけ、ツイッタとブルースカイ両方フォローしてくれている方がいるのだけど、その人はほぼ青空の方はログインしてない様子だし、そのアカウントが私だと認識してフォローバックしてくれたというわけでもなさそうだった。なので、自由に心の内をぶちまけている。300文字という制限もまた、普段より(140文字)少しだけ広い部屋を別宅にしたようで、ちょっと楽しい。

せっかくだから、全くの別人になれるチャンスでもあるのに❝界隈❞の皆さんはツイッターと同じアイコンで同じ名前にする人が多いみたいだった。

 

冒頭のバキュームカーの写真は、河西緩衝緑地で撮った。和歌山でも久しぶりに見た。

都会の人は見たこと無いんだろうな、バキュームカー。地元に居た頃付き合っていた彼氏の親戚が、バキュームカー接触事故したことがあり「なんか煙が出てた」というコメントだけで延々と腹を抱えて笑っていたことを思い出す。

私が和歌山に住んでいた頃は、自宅の便器が水洗か否かに関わらず、どの家庭にもバキュームカーが来た。彼らは「汲み取りのおいやん」と呼ばれていた。おいやん、とは和歌山弁でおっちゃん、のことである。

し尿汲み取りのおいやんたちは、何故か毎回異常な早起きで家にやってくる。確か夏は朝五時半とかに現れた。夏は、とわざわざ書いたのには理由がある。バキュームカーの記憶が鮮明に残る季節なのだ。夏場、私はいつも窓を網戸にして就寝していた。明け方頃、群青色の空がほんのり淡いピンク色に変わり、小学校で飼われていた鶏がコケコッコーと鳴き始める時刻。夢うつつの私の鼻腔を、直撃するあの臭気、と、おいやんたちの凄まじいダミ声。なかば怒鳴るような大声で、おいやんたちが現れ、作業をしていく。とにかく眠りをそのにおいでさまされるあの体験は、下水道が整備された今ではもう二度と和歌山でも出来ることはないだろう。そしてわりとずっと、あのおいやんたちが私は怖かった。

まず、子供の頃から「汲み取りのおいやんには絶対に臭いというな、言ったらめちゃくちゃ怒られて、二度と家の便所を汲み取ってくれなくなる」とかなんとか、子供たちの間ではまことしやかにささやかれていた。実際どうなのかはしらないけれど、かなりコワモテの方々がおおかったように記憶する。念のために書いておくと差別的な意味でこんなことを書いているわけではなく、本当にある時期のあの人達は、そんな感じだった。

一般家庭では、そこまで頻繁に彼らが作業しに来ることはなかったが、全世帯、公共施設や事業所なども含めすべての建物のトイレには汲み取りが必要だったので、町を歩けばそこかしこにバキュームカーを見つけた。そんな場所で私は育った。2024年現在、和歌山の下水道普及率はやっと8割まで到達したという。それでも全国ワースト2位だそうだが、昔を知るものとしては、大きな変化を感じずにはいられないのだった、特に真夏の早朝は。

 

先週帰省したのは、入院する母を見舞うためだった。

少し時間があったので、私が通っていた幼稚園の近所に昔からある喫茶店に寄ってみた。

 

店内には猫がおり、完全に客がこないていで寛いでいた。それは店主のおばあちゃんも同じだった。私がお店に入ると少し驚いて、思い直したようにあれまあまあ、いらっしゃい、と言った。

店内には懐かしいストーブの香り。AMのラジオ関西が流れていた。私がコーヒーを飲みながら本を読んでいると、おばあちゃんが

「かえらしスカートはいちゃあらして(可愛いスカートを履いてるわね)、ほやけどそえ、裾が床へ擦っちゃあるで(だけどそれ、裾が床に擦ってるわよ)。えらいべっぴんさんやなあ、ダンスとかするんかい?」と話しかけてきた。

褒められてうれしかった私はありがとうと言い、このお店はいつからやってるんですかと訊いた。ここに住んでいたのだし、隣の幼稚園に通っていたからだいたい知ってたのだけど。

「どれぐらいやろねえ。もう、辞めたいって思うぐらい、ながーいこと、やってる。53年。」と。教えてくれた。

それから店を出て、これまた幼稚園の頃からある毛糸店の前を通り、実家に向かった。

 

コロナが第五類になっても、まだ面会に制限は多い。

病院へは、自転車で、冒頭の河西緩衝緑地内を通っていく。

あらためて、大きな工場だと思う。この工場とともに、この街の子供たちは育つ。工場の広大な敷地に沿った緑地すべてが公園で、そこが遊び場だった。

木々の間から、巨大な施設が見えるが、これはほんのわずかな一部に過ぎない。

日常でここまで大きな建物に囲まれることは、普通は無かったのだな。宝塚に嫁に来て、初めてそのことを実感した。故郷を離れずあの町で暮らす同級生たちはこの風景が特別だとはおもわずに今も過ごしているのかもしれない。

 

 

むかし、ここのスナックで同級生が働いていた。どうしてるのかな。

帰りは、新梅田食道街の潮屋でうどんを食べた。ここのうどんは本当においしいし安い。新梅田食道街全体がうまいわ安いわなので、平日でも行列が絶えない店も多い。たこやきの「はなだこ」は、えげつない混雑っぷりだった。美味しいもんなあ、あそこのたこ焼き。

潮屋のうどんも、麺がぶっとくて、お出汁が最高で、ほんますき。

帰りに、阪急梅田駅でミャクミャクさまのラッピングカーを見た。

そしたらなんと

到着した宝塚駅にもミャクミャク様がいた。

尚、母の手術は金曜日無事に済んだ。今は痛むけれど、快方に向かっているとのことだ。ラジオの好きな母は、伊集院のラジオを病室で聴いて笑ってしまって傷口が痛むと言ってた。父がとにかくうれしそうで、それもうれしかった。小泉構文みたいになったけど、本当にそうだから。


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帰りの南海電車で書いた日記


今日は仕事を休めたので、母に会いに行った。会いたい人には会いに行け、と、鉄道員の歌詞にもある。だからというわけではないけど、なるべく私は会いたい人には会いに行くようにしている。

だっていつでも会えるというわけにもいかないから。今日も、仕事は休めたけれど、娘は遅くても五時には帰ってくるわけで、晩御飯の用意もあるし、いくら会社にいかなくても普通なら和歌山に帰る時間までは捻出できなかったのだ。

それが、今日は家を空けられた理由は、ひとえに夫の在宅ワークが増えたことによる。

夫が、週に一回でも、娘の帰る時間に家にいてくれる……!

このことが、私自身の働き方、普段の仕事の余裕、我が家のありかた、全てに革命をもたらした。

 

思えばここまで本当に色々あった。まず学童ワーストの宝塚において、例に漏れず私は学童に落ち続けた。夫のお母さんを呼びつけすぎて、そのことで揉めて夫婦の危機にも陥ったこともある。

夏休みなど長期休みは娘を会社に連れていって机の横に座らせて仕事をした。社長は娘を可愛がってくれたが、気も遣う&散るで、大変だった。

学童がやっと決まってからは、かなり楽にはなったが、保育所内の学童保育だったため、保育園に預けるママ達の不文律を知らなくてしくじったりもした。

 

保育園での暗黙のルールとは

 

毎日子供を預けて働くお母さん達は、主に2つの仕事を担っている。ひとつは勤務先の業務、もうひとつは家庭での役割である。そして後者の大きなタスクのひとつが「ご飯作り」である。さらに、ご飯を作るためには、買い物をしなくてはいけない。

勿論私はコープの個別宅配とスーパーの配送も利用していた。それでも、帰りに家事の一貫としての買い物をして帰らなくてはいけない日もある。

しかし、多くの保育園の場合、夕飯のためなどの買い物は、子供を引き取ってからやるようにという暗黙のルールがあるらしいのだ。私はそれを知らなくて、学童に、スーパーのふくろを下げて行ったことが何度かあった。遊びに行ってるわけではないし、自分の娯楽の買い物でもなんでもないのに、むしろ一仕事終えて献立を考えながら食材を探すのはしんどいのに、それは子供を預けてやることではない、と見なされている。そんなん知らんがな。でも、お迎えのときにスーパーの買い物袋をさげていくのは、良くないらしい。

 

残業を“絶対にできない”という苦しみ

子供のお迎えがあるお母さんは、残業ができない。絶対に、できない。このことが、日々どれほど精神的にも実務も大変か。どうしてもその日に終わらない作業もある。そうなると、お迎えの時間が迫れば迫るほど焦る気持ち。休憩もランチも削りに削りに、それでも足りない時間。

ああ、何も気にせず仕事だけに集中できたら、と何度思ってきたかわからない。

 

それが、今では週に一回程度だが、フリー残業dayが出来たのである。沢山悩んでデザインができる。納得いくまで見直しもできる。これがどれだけ贅沢で待ち望んだ環境か。

 

その他、在宅ワークの日が増えて家族三人揃って晩御飯を食べる日も増えた。皆で会話しながら作りたての晩御飯を食べられる喜び。娘の精神状態が安定してきたのも、こういう時間が増えたからのような気もしている。後片付けも、夫の帰りを待たず一度に出来るので家事がかなり楽になった。

もっと早く夫の在宅ワークが始まれば良かったのにと思うし、ずっと続いてほしい。

 

 

特に今思い返しても、子供が未しゅうえん児の頃の私はとても孤独だった。あの時、こういう時間があれば、と強く思う。あの日々を思うと、私の心には冷たい風が吹く。夫への不信感とか拭いきれない苛立ち、怨みのようなものが渦巻く。あのときどうして、ああしてくれなかった、こうしてくれなかった、そんな思いでいっぱいになる。夫の子育ては、良いとこどりだ。孫みたいに娘をかわいがって、さぞたのしいだろう。娘はかわいいもの。だけど子育てはそれだけじゃない。夫は私より早起きして娘をみてくれたこともないし、私は働いてなかったからそれらは当然だと思って全てを一人で抱えてきた。でもそれは、間違いだった。家事は今も私ひとりでやる、それはいいんだ。でも、子供のことはちがう。子供は、2人の子供なのに。あのころ、全部私だけ、ひとりで、苦しかった。あなたは仕事だけしていれば、よかったんだもんね、仕事って大変だけどたのしいよね、評価されてお金も貰えて、私もそうおもう。挙げ句土日まで放っておかれた日にはさ。

 

ああ、つい長くなってしまった。子育てする夫婦にとって、夫が家にいる時間が長いというのは、それだけで妻の心の安寧に繋がると思う。こころから思う。

 

お母さんの入院の話どこいった。

 

 

よくわからないことで怒る人の週末

ツイッターであほみたいな数のいいねが付いた。1000をこえたぐらいで通知を切ったのでその後はあまり追えていないが何が起こったかざっくり書くと、1.9万をこえたあたりでアラビア語のリプがきた。友達が教えてくれた。


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そのあと、変な詩人がリプ欄に現れた。


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そして、なぜか知らん人に引用で「死ね」と書かれた。

知らない界隈のフォロワーが増えた。これは良かった。私はそもそも「界隈」という言葉が苦手である。

 

この土日、フォロワーさんと会った。去年JALのセールの時に飛行機だけ押さえておいたのだけど、直前まで実際行くかどうか迷っていた。子供のこともあり、なかなかそう簡単に私だけで泊まりがけのお出かけなんてできないのである。東京でお会いしたのは、私の本を買ってくれたかたで、以前からDMではやりとりがあった人達だ。

土曜日は東京、日曜日は横須賀へ。歩きながら、喫茶店で、沢山お話をした。でもまだ話足りないぐらいだ。


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その中で「ツイッターには“怒りのポイント”がよくわからない人が多い」という話題になった。

土曜日一緒に歩いたAさんは、もともと廃墟の写真を撮っていた人で(その廃墟の写真を撮るのも、Aさんは不法侵入にならないようにきちんと管理者を調べて連絡を取るなどしている)、そのうち街歩き界隈というところとも交流するようになったという。

私は多分この“街歩き界隈”というところに属する写真をよくツイートしているが、実は相互にその界隈の人が少ない。たまに相互アカウントのリプでのやりとりがTLに流れてくるのだが、会話の相手側にブロックされていることがある。あまりフォローバックしないので、そのことについて空リプで揶揄されたこともある。そこまで私なんかのフォロワー数とか誰にフォローされてるか、気になるんだ!と驚いた。私自身でさえあまり把握していないことなのに、そんなに赤の他人がやきもきするとは。暇なんやろな。

そもそも私の「ぱる」というアカウントは、性別もまったく別の私になって、短歌や散文を中心に呟く用で始めたものである。そのころフォローしてくださった文芸系の人はだいたいフォローバックした。元来喫茶店は好きなので、文章だけでなく次第にコーヒーの写真も増えた。喫茶店の写真は安易にいいいねがもらえるので正直嬉しかった。よく歩くので街並みも載せるようになった。そうして界隈でよく見るアカウントにフォローされ始めたが、全然フォロバしなかったら何人かはフォローをはずされていた。それでいいと思う。というか、私もまったく悪意もなくて、ましてお高くとまるつもりなど毛頭無く、でもそんなにたくさんの人たちをフォローしないのは、私の性格に由来する。

昔から、学校の教室でも、5人以上のグループになるのが苦手だった。運用しきれなくなる。誰に向かって話せばいいのかわからなくなる。人見知りではないのだが、大人数が苦手なのだ。ツイッターもおなじである。

 

だけど私は好きな人たちには話しかけたいし、あなたの話も沢山聞きたいし、私の話を聞いてほしい。だから心の内も赤裸々に吐露することは多い。心は露出狂。しかし内面を文字にするとどうしても女性らしさがでる。そういうちぐはぐさも気持ち悪いと感じる人もいるんだと思う。

ただ、冒頭の話に戻るがやはり「なぜそのことにそこまで怒るのか」みたいな出来事はツイッターには多い。そして“界隈”ごとにその怒りのポイントがある、というのもこの前Aさんと話してて再認識した。

Aさんの印象を書くと、まずツイッターに載せている写真がどれも素敵で儚げでもありながら自然の力強さも感じられる。そしてそこに添えられる言葉の美しさは毎回目を見張る。他にあんなクオリティを保持したまま言葉を綴れる人はなかなか居ないと思う。激しい言葉を使わないで、詩的な表現をする人。攻撃的なことを書いている場面は見たことがなく、いつも穏やか。この人はどこまでも温和だなと思っていた。けれど実際お会いすると実は毒も吐くのだというのを目の当たりにして、だからこそ普段出力される言葉の優しさの凄みがわかった。この人は毒がないのではなく、飲み込んでいるだけなのだ。



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とても綺麗な人だったけれど、幼少期から大変な苦労をされているお話をきいて、それでも世界を恨まずにいる、決して世界への呪詛を吐かない強さに畏敬の念を抱いた。ただ、ある人の話になった時、私なりに反論?があったのだけど、それをうまく伝えられなかった。あなたみたいに辛さを経験した人に向かって私が言えることはないのかもしれない、と口をつぐんでしまった。でもこれはよく考えたら失礼な理由だったかもしれない。

色々ぼかしすぎてわかりにくい話になってしまった。

 

で、冷静ぶってる私はといえば、これまた結局わけのわからないことで怒ってる人だと思う。何を見ても腹が立つ時もある。例えばフォントじゃないものをフォントという人、もうこれはデザイナーじゃないんだから、私はモリサワを毎日仕事で使う人間だけど、一般の人はそんなもんだよ仕方ないよと思うのだけど、その間違ったフォントへの認識のまま“#️⃣フォント”というタグまでつけているのを見た時は心の中で「それはフォントじゃねえ〜!」と叫んでしまう。心にだけ、その絶叫をとどめる。だからお願いだ、せめてそのタグをやめてくれ。

あと自分の主張を強くするために、実在するのかどうかさえわからない発言を用意し、「見えない何かと戦って」「勝手に他方を下げる」表現をする人が本当に嫌だ。


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2日目は横須賀を歩いた。ここでも私の本を買ってくれたかたとお会いした。馬堀から豊川稲荷、ドブ板通り、コースカ、汐入、三笠、遊郭跡、三崎街道を通って横須賀中央に戻った。ここを案内してくれたYさんは昔はツイートをしていたけれど今は殆どやらなくなった人で、そのSNSをやらなくなった理由もとてもよくわかるものだった。それは「インターネットになりたくないから」というものだった。SNSに支配されると、SNSに載せるための行動をするようになってしまう、それが嫌だということだった。Yさんは「バズ狙いというのはこの世でもっとも卑しい行為だ」と言った。

自分自身ではあまり呟かなくなったけれど、街歩き界隈の投稿などをよく見ている人だったので「ここは多分まだほとんど誰もTwitterに載せてなかったと思う」という場所に連れて行ってくれた。それが冒頭のあほみたいにいいねされた写真のビルである。


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私はなんだか申し訳なくなった。せっかく良いスポットを教えてくれたのに、それはとても楽しい時間だったのに、よくわからない人にまでその投稿が届き、挙句死ねとまで言われたことが。Yさんは笑いながら「バズり散らかしたね」と言ってくれたけれど。

でもこの日の思い出はそれだけじゃなくて、indigo la Endのロケ地にも行けたし、横須賀では他に2軒「撮影禁止」のお店に行ったのだ。そのお店の内装、食器、コーヒーの味…どれだけ素敵だったか。夢みたいなお時間だった。あの場所での出来事は、思い出の中だけにある。

 

あーそれでまた思い出したのが(なんだせっかく良い感じの話だったのにまた怒り始めたぞ私)、喫茶店SNSに載せるときに店名を載せるかとかそもそも写真を撮るかとかそういう話を東京でAさんとしたのだった。というのも、私が和歌山に住んでいる時から家族で何度か訪れている喫茶店についてある人が「店主のお爺さんはSNSの影響でお客さんが増えたら経営が大変だから、私は思慮深いので店名を敢えて載せずにいたのに店名を書く人がいる」と文句言うてるのを見たのよ。いやその店のじいさん、もうずっと昔からそんなんやしいつ開くかどうか地元民でもわからんような喫茶店やねんて。てかお前の店かよと。ほんでな、Aさんとも話したんやけど、東京の人でさえもうすでに名前も知ってる名建築の喫茶の名を今更隠してどうなるのだと。あとお前も写真は載せとるがな。ほんだらあんたは、店の爺さんに直接写真撮ってTwitterに載せてええか訊いてへんのかい。無許可で写真撮って載せてるのか。そこで許可を得たならその文句は見当違いやし、もしおじいが自ら「店に客がようけ来たらさばかれへんから載せんとってくれ」言うてるんやったら載せたらあかんと思うんよ。横須賀の店はそうやったから。ということで、最後ようわからんことで怒ったまま、終わります。こんなことでイライラしたりできるの、暇なんやろな。

 

 

 

 

年末年始の話、昨日の続き

あの地震の瞬間は、私達家族はマンションの8階にいて、確かな揺れを体感して机の下に潜った。テレビの画面からは、けたたましい緊急地震速報の音とアナウンサーの声が響いていた。泣き出した娘を抱き締めながら、私は、昔見た海外ドラマ「コールドケース」のエピソードを思い出していた。

 

コールドケースは、過去の未解決事件を、 時間軸を交差させながら謎解きする一話完結のミステリーである。80年代、 90年代に起こ その時の洋楽ヒットソングも色々盛り込まれるのが好きで、一時期ハマっていた。

そのコールドケースで、忘れられない回がある。

アメリカで実際に行われたメディア戦略が物語のモチーフになっている。

 

小説家オーソン・ウェルズは、当時 情報の最先端だったラジオを巧みに宣伝ツールに使って、 自分の小説を広めた。

それはどんな手法だったかと言うと、ラジオCMとして、 突然、普段の放送中に

『 臨時ニュースです、宇宙人が襲来しました』

と、 リアリティのある臨時速報を入れるというものだった。 あとから種明かしで、はい実はこれ今度出す小説の宣伝でした~ !という、ドッキリのようなラジオCM番組を流したのだ。

当時は、家族全員でラジオを聞く習慣のある家庭が多かったし、 ラジオの情報こそすべてという時代。 あまりにも緊迫感のあるドッキリニュースを信じて、明日宇宙人が来て地球が終わると思い、パニックになってしまった人々も大勢いたという。

ドラマの中では、やはりそのニュースを、 夫と子供と3人家族で聞いていた人妻が、家族皆で逃げる準備をしていた。しかし、 次の日彼女は遺体で見つかる……。

種明かしをすると、そのニュースを聞いて、 1度は夫と子供と逃げようとするその女性は、 地球最後の日を前にして、家庭を捨てて、秘かに好きだった男性のもとへ行こうとした。 それに気付いた夫は、彼女を殺してしまう。そんな話。

まったく、オーソンウェルズ、なんて酷いことをするんだ。 

実際こんな殺人は起きてないけど、 宇宙人襲来を信じた人は大勢いたんだから、 こういう行動をしてしまった人ならいたかもしれない。

 

明日世界が終わる、と言われたら。

この正月からテレビで流れてくる映像、ネットの情報を見て何度も考えた。そして私は、誰よりも娘と一緒にいたいと強く思った。私は絶対娘を1人にしない。

年末年始

毎年年末年始は忙しい。そんなもん誰だってそうだと言われると思うけど、まず印刷物の納期が早まるのでスケジュールが圧迫される。受注した年賀状も刷らないといけない。そして私は、一応長男の嫁なのだ。お歳暮は11月末までには手配しているとして、12月末には義理父の誕生日があるからお祝いのご馳走を用意しないといけないしおせちも作らないと。そんなこんなで慌ただしい年の瀬に、私は仕事を結局年内に納めることを諦めて「正月に出勤します」と言い残し、昼過ぎに会社を出て西へと向かったのだった。


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福山へ来たのは、これが初めて。


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今回の目的地は、尾道


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今年の年末は何にもしないと決めたんだ。

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夜遅くなってしまったけれど、とても良い町並みだった。

この日尾道へ行ったのは、友人が懇意にしている本屋さんに私も行ってみたいと思ったから。


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深夜に開くそのお店には、遠方からのお客さんも多く、繁盛していた。そして店主はめちゃめちゃ喋る。マシンガントークとはこのことかと思う。友人も交えて、楽しい時間はあっという間だった。

その日は、友人のつてで、向島のシェアハウスに無料で泊めていただけることになった。色々と頼りっぱなしで有難いやら申し訳ないやらで、部屋にあった炬燵で寝ることにして、用意していただいた布団を1つしか使わなかった。洗濯物を減らしたかったのだ。そのことを翌朝何気なく伝えたのだが、あとから「布団を1つしか使ってない」とはどういうことか、一緒に寝たのか、とザワつかれていたらしいことを知った。ちなみに友人は男性で、いや、まったくそういうことではなく、本当に何にもなかったからこそわざわざ伝えたし、無料で泊めて貰ってる余所の家の布団でそういうことはしないし、とにかくそういうことは当然なかったからナチュラルに伝えたことで、いらぬ誤解を生んでしまったらしい。まあ誰も深刻に眉をひそめてるわけではなく、ただちょっとびっくりされて後から本屋さん達のネタになってたと聞いて反省した。私は一応人妻だった。貞淑かどうかはわからないけれど、誰より家族を大切にしている。

この旅だって、娘が祖父母宅に滞在し、夫がライブに出掛けているタイミングだったから私も少し羽を伸ばしただけなのだ。私はいつだって娘を一番に思っている。

翌朝は、娘が早く帰れと言うのでどこにも寄らず実家へ向かった。31日は私の母親から「長男の嫁なんだからおせち頑張ってね」というメッセージが来ていて苦笑した。見るひとが見たら笑うようなセリフだけど、私の母親は本気で人生をかけて「長男の嫁」を頑張ってきた人だ。何もかも捨てて。何日もかけて丁寧に用意する正月の料理は見事なものだ。

あれは私を縛る呪いだ。

どんなに自由になりたい、今年の年末は何にもしない、と決めても結局古釘と一緒に黒豆を炊いて、有頭エビの背中に竹串をさしてワタを取り出し、サツマイモを練って、蓮根を酢水にひたし、大根を千切りし、鰹と昆布でとった出汁で炒り鶏を作る。そして作った料理を持って、正月は義実家へ行く。夫の両親は優しいので作った料理はそれなりに喜んでくれる。「年末のお父さんの誕生日お祝いもありがとう」と言われた。今年はケーキを夜中の二時まで起きて作った。夫が「たいしたものじゃないで」と言った。二回も言った。用意したのは私なのだけど。こんな時もニコニコしているために、私は時々西へと向かう列車に乗ったり、東へ向かったりするのだと思う。私の母親が絶対しなかったようなことをして、少しでも呪いから解き放たれようとしてるんだと思う。ちなみに母親のことはとても大切だし尊敬しかないし、だいすきだ。ただ、あの自分をどこまでも犠牲にする姿を刷り込まれた私は、あれが正しい母親の姿であると強く思うと同時に、ああはなりたくない、ともすればお母さんの分まで私は身勝手にさせてもらうよ、と思うのだった。もちろんそれは家族を大切にしながら、の範囲内で。

 

 

 

さよなら

祖父が亡くなって一年経った。

大切な人がこの世にいなくなっても、生活は続く。いつまでもさめざめと泣いていては暮らしていけない。四六時中祖父のことを考えているわけでもない。大好きな人ともう2度と会えなくても私は子供を育てないといけないし、霜降り明星のラジオを聴いたら笑うし、リンツのチョコを食べたら美味しいと思う。そうやって日々を生きている。

けれど悲しみは、今もふとしたときに顔を出す。その心の痛みを感じるとき、私は少しホッとする。まだ私の中で、気持ちが死んでないことを確認できるから。

 

祖父の火葬後、骨を箸で拾う所謂「骨上げ」をしたとき、白い骨に混じって幾つかの部位がピンク色になっていた。ちょうどこんな朝焼けの空のような、淡い桜色。

 

それを見て、火葬場の職員のかたが「花びらの色がお骨に移ったら、こんな色になるのですよ」と教えてくれた。

その時は、片方長さの違う箸(骨上げの時は箸の長さをわざとちぐはぐにするそうだ)を持たされた我々は一同に「そうなんですねえ」と頷いたが、今思うとあれは嘘だ。

だって、3時間以上かけて1000度もの熱で焼かれるんだよ。分厚い肉が跡形もなくなるのに、小さな花の組織なんか残るはずないじゃないか。あれは、肉と骨が焼かれた色なんだろう。でもそんなことをいうと生々しいので、この場では花の色と説明することになっているのだろう。

だけどそのとき、家族の誰もが花の色だという説明に納得してしまう理由もあった。

以前ブログにも書いたが、祖父の棺には、私が今まで行ったどのお葬式よりも、可愛らしく、美しい花がどっさりと供えられていたのである。よくある菊の花ではなく、まるで結婚式のブーケのような楽しげで可憐な花束を、溢れそうなほど祖父のまわりに散りばめた。それは、生前祖父をよく知る花屋さんの意向だった。おじいちゃんは、ほんとうに友達が多かった。葬儀屋から花屋、住職、全員祖父のとこをよく知る人で、心からの言葉をかけてくださった。私が見たほとんどの葬式は「そういう仕事の人がそういう仕事だからやる」以上の言葉も花もなかったし、そのことを悪いと言うつもりもないしそれが普通だと思う。

 

mikimiyamiki.hatenablog.com

 

花の色がお骨に移ってピンクになる、というのは、世の中数多ある嘘の中でもとても優しい部類の嘘だ。

私の母は、「亡くなった人を想うとき、天国でその人の上に花が降る」といった。あれも嘘だ。でもそれも、無いよりあるほうがずっと良い、素敵な嘘だ。

 

最近私はこの本を買った。いくつかの「さよなら」をまだ心に引きずりながら生きる私にはとても惹かれるタイトルだったから。

 

 

この本には、日本人と「さよなら」の関係、そして死についての考察が、実に様々な古典・現代文学や哲学、宗教などの文献を用いて書かれている。それだけでもかなり読みごたえがある。


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世界の別れの言葉は「神のご加護を祈る」「またあいましょう」「お元気で」というパターンに分類されるという。しかし日本語の「さよなら」はどのパターンにも当てはまらない。「さよなら」は、「左様であるならば」つまり、接続詞を別れの挨拶としているのだ。アメリカの紀行作家アンリンドバーグの文章がとても良かったので引用する。

 

「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。
これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない。
〈Auf Wiedersehen〉や〈Au revoir〉や〈Till we meet again〉のように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわそうという試みを「サヨナラ」はしない。
目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げる〈Farewell〉のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
……けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。
それは事実をあるがままに受け入れている。
人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。
ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしないGood-byeであり、心を込めて握る暖かさなのだ――「サヨナラ」は。

AnneMorrowLindbergh(著)、中村妙子(訳)『翼よ、北に』

 

私は自分がさよならを言う時、正直ここまで考えていなかった。こういう視点があるのは、世界中を飛び回っていたアンリンドバーグならではの着眼点なのかもしれないけれど、もともと感性が研ぎ澄まされた人物だったのだろうなと思う。だって世界各国を旅したり言葉を多く知っている人全員がこんなふうに物事を捉えているとは思えない。そのぐらい素敵な着眼点だと思った。

昔から日本人の考え方の根底には、死を劇的な扱いにせず、今日の延長にあるものとしての捉え方があった。今日をより良く生きようとすることが、すなわち良い明日へ繋がる。明日のために今日を蔑ろにするでもなく、明日を投げうって今日の刹那的な快楽にふけるでもなく、後悔のない今日を生きることが大切なのだ。

……というようなことが全体を通して書かれていたと思う。全然違ったらどうしよう。とにかく良い本だった。だけど、これを読んだからって、悲しみから一気に解放され救われました!っていうものでもなかった。ただ、死があって、そして「左様であるならば」と今日があり、明日があり、かつて大好きな人がいた日々と、いまを「接続」してる言葉。それがさよなら。

途切れるものではない、そう思うだけで、なんだか少し寂しさが和ぐ気がした。

ヒーローになりたい


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ヒーローという存在について歌われた楽曲は時代や国境を問わず数多く存在するが、私はそのすべてを聴いたことがあるわけではないし、そもそも今回はヒーローについて書きたいわけではない。

ではヒーローの何を語りたいのかというと、私の好きな2組のアーティストがヒーローという同じテーマについて曲を作っていたので、それを比較して私の独断と偏見でどっちがどうだとか、やいやい勝手にしゃべりたいと思ったのだ。

そのアーティストとは、ミスチルと、amazarashiである。

私はこの両2組が、かなり好きだ。特にミスチルはファンクラブに入っており、20年も前から何度もライブにも足を運んでいる。40代ならば、ファンでなくとも誰もが一度はミスチルの曲を青春時代に経由しているはずだ(意図的にCDを買って聴かずとも耳にしているという意味で「経由」という表現にした)。

amazarashiはライブはまだ行ったことがないし、音源も実はサブスクでしか聴いたことが無いけれど、いつか絶対ライブも行きたいと思っているし、ここ数年はミスチルよりも聴く回数が増えた。

そんな私が、桜井さんのHEROと秋田ひろむさんのヒーローを聴き比べた時、amazarashiに共感する点が多いというか、「ああ、桜井さんは、人間ではなくなってしまったのだ」という思いを強くしてしまうのである。どういうことなのか。

 

ふたつの楽曲で歌われるシチュエーションは、少し似ている。

例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして

僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ

これがミスチルである。桜井さんは言う、自分はその命と引き換えに、世界を救うことができたとしても、名乗り出ないだろうと。なぜなら臆病者だから。

愛すべき沢山の人たちが

僕を臆病者に変えてしまったんだ。

(中略)

でもヒーローになりたいただ一人君にとっての

つまずいたり転んだりするようならそっと手をさしのべるよ

とても素敵なラブソングだ。メロディラインも大好き。

 

人生をフルコースで深く味わうための

いくつものスパイスが誰もに用意されていて

時には苦かったり渋く思うこともあるだろう

そして最後のデザートを笑って食べる君の側に僕はいたい

ええわあ、ここの歌詞めっちゃ好き。

 

 

対して、amazarashi秋田さん

もしも明日世界の危機が来て

僕が世界を救う役目だったら

頑張れるのになかっこいいのにな

なんて空想だなんて空想だ

そしたら僕の亡骸君が抱いて泣きながら

やればできるんだねって呟いて

 

そう、ここまでは、同じ切り口のように見える。

登場人物が2人いて、おそらく男女だろうか、一人称の「僕」と、僕にとって大切な存在である「君」。

ただ、おなじような2人が同じ空想をしているように見えて、両者には決定的な違いがある。

それは、桜井さんが描く「僕」は自分の命と引き換えに世界を救えても、名乗り出ないのだ。だけど、たったひとり「君」のためなら、君だけのためのヒーローになりたい、と歌うのである。

対するamazarashi

なんて言っても世界の危機なんてそうそう来るもんじゃない

という。そして

絶体絶命の危機のふちで起死回生の一撃はきっと

怒りか悲しみだ

ときたもんだ。

更に

 

今が世界の危機かもね

誰も選んじゃくれないけど

頑張れるかもなかっこいいかもな

ここで今やれるなら今がまさにそうだ

 

どうせ世界世終われと願っても

世界はくそったれのまま続いてく

 

そうなのだ。この醜い世界はそう簡単には終わってくれない。続いていく。そこで君たちはどういきるか。

誰だってヒーローそんなわけはねえよ

いわゆる掃きだめのありふれた有象無象

 

ここである。誰だってヒーロー?そんなわけがない、つまり、自分の命と引き換えに世界を救う側にいけるのは、その権利を得られるのは、実はほんの一握りの人間なのだ。

そこを、桜井さんは、もうわからなくなっている。名乗り出ることで得られる地位や名声、そんな人生の「バズ」りに、桜井さんは興味がない。

なぜなら、若くして成功し、今もトップを走り続ける桜井さんは、もう人間じゃなくてとっくにヒーローになってしまっているのである。20代そこらで、ルサンチマンなどからとっくに解放され、それでも歌に対する情熱を絶やさず、高みを目指す姿はもう人間じゃなくて神様に近い。

余談だが私はB’zとミスチルの夢の競演が叶ったユナイトのライブを見に行ったことがある。その時の稲葉さんと桜井さんの対談などは、あまりにも歌に対してお二人がストイックすぎて、そして二人は人間のあらゆるしょうもない感情からはもう解脱しているように感じて、畏れを抱いたほどである。

ただ、そんな桜井さんなので、秋田さんの書くような、多くの人が感じる人間らしい葛藤や苦しみ、特に「負け」感情に関しての解像度が、低くなってしまっているのではと私は感じたのだ。

 

そこで負けねえと言ったもん勝ちの

よくある強がりのいつだってヒーロー

僕は選ばれたたった一人のヒーローじゃない。むしろもし選ばれるなら、こんな命くれてやるのに。でも、くそったれな世界は続く。それなら、そんな世界で僕はやれるだけのことやってやるよ、負けねえぞ。そんな感じ。うん、素敵。現代人に響くのは、やっぱりこっちかな。ああでもどっちも好きだ、ミスチルもamazarashiも、やっぱりセクシーなのもキュートなのもどっちも好きだ、なんで最後あやや