珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

ヒーローになりたい


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ヒーローという存在について歌われた楽曲は時代や国境を問わず数多く存在するが、私はそのすべてを聴いたことがあるわけではないし、そもそも今回はヒーローについて書きたいわけではない。

ではヒーローの何を語りたいのかというと、私の好きな2組のアーティストがヒーローという同じテーマについて曲を作っていたので、それを比較して私の独断と偏見でどっちがどうだとか、やいやい勝手にしゃべりたいと思ったのだ。

そのアーティストとは、ミスチルと、amazarashiである。

私はこの両2組が、かなり好きだ。特にミスチルはファンクラブに入っており、20年も前から何度もライブにも足を運んでいる。40代ならば、ファンでなくとも誰もが一度はミスチルの曲を青春時代に経由しているはずだ(意図的にCDを買って聴かずとも耳にしているという意味で「経由」という表現にした)。

amazarashiはライブはまだ行ったことがないし、音源も実はサブスクでしか聴いたことが無いけれど、いつか絶対ライブも行きたいと思っているし、ここ数年はミスチルよりも聴く回数が増えた。

そんな私が、桜井さんのHEROと秋田ひろむさんのヒーローを聴き比べた時、amazarashiに共感する点が多いというか、「ああ、桜井さんは、人間ではなくなってしまったのだ」という思いを強くしてしまうのである。どういうことなのか。

 

ふたつの楽曲で歌われるシチュエーションは、少し似ている。

例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして

僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ

これがミスチルである。桜井さんは言う、自分はその命と引き換えに、世界を救うことができたとしても、名乗り出ないだろうと。なぜなら臆病者だから。

愛すべき沢山の人たちが

僕を臆病者に変えてしまったんだ。

(中略)

でもヒーローになりたいただ一人君にとっての

つまずいたり転んだりするようならそっと手をさしのべるよ

とても素敵なラブソングだ。メロディラインも大好き。

 

人生をフルコースで深く味わうための

いくつものスパイスが誰もに用意されていて

時には苦かったり渋く思うこともあるだろう

そして最後のデザートを笑って食べる君の側に僕はいたい

ええわあ、ここの歌詞めっちゃ好き。

 

 

対して、amazarashi秋田さん

もしも明日世界の危機が来て

僕が世界を救う役目だったら

頑張れるのになかっこいいのにな

なんて空想だなんて空想だ

そしたら僕の亡骸君が抱いて泣きながら

やればできるんだねって呟いて

 

そう、ここまでは、同じ切り口のように見える。

登場人物が2人いて、おそらく男女だろうか、一人称の「僕」と、僕にとって大切な存在である「君」。

ただ、おなじような2人が同じ空想をしているように見えて、両者には決定的な違いがある。

それは、桜井さんが描く「僕」は自分の命と引き換えに世界を救えても、名乗り出ないのだ。だけど、たったひとり「君」のためなら、君だけのためのヒーローになりたい、と歌うのである。

対するamazarashi

なんて言っても世界の危機なんてそうそう来るもんじゃない

という。そして

絶体絶命の危機のふちで起死回生の一撃はきっと

怒りか悲しみだ

ときたもんだ。

更に

 

今が世界の危機かもね

誰も選んじゃくれないけど

頑張れるかもなかっこいいかもな

ここで今やれるなら今がまさにそうだ

 

どうせ世界世終われと願っても

世界はくそったれのまま続いてく

 

そうなのだ。この醜い世界はそう簡単には終わってくれない。続いていく。そこで君たちはどういきるか。

誰だってヒーローそんなわけはねえよ

いわゆる掃きだめのありふれた有象無象

 

ここである。誰だってヒーロー?そんなわけがない、つまり、自分の命と引き換えに世界を救う側にいけるのは、その権利を得られるのは、実はほんの一握りの人間なのだ。

そこを、桜井さんは、もうわからなくなっている。名乗り出ることで得られる地位や名声、そんな人生の「バズ」りに、桜井さんは興味がない。

なぜなら、若くして成功し、今もトップを走り続ける桜井さんは、もう人間じゃなくてとっくにヒーローになってしまっているのである。20代そこらで、ルサンチマンなどからとっくに解放され、それでも歌に対する情熱を絶やさず、高みを目指す姿はもう人間じゃなくて神様に近い。

余談だが私はB’zとミスチルの夢の競演が叶ったユナイトのライブを見に行ったことがある。その時の稲葉さんと桜井さんの対談などは、あまりにも歌に対してお二人がストイックすぎて、そして二人は人間のあらゆるしょうもない感情からはもう解脱しているように感じて、畏れを抱いたほどである。

ただ、そんな桜井さんなので、秋田さんの書くような、多くの人が感じる人間らしい葛藤や苦しみ、特に「負け」感情に関しての解像度が、低くなってしまっているのではと私は感じたのだ。

 

そこで負けねえと言ったもん勝ちの

よくある強がりのいつだってヒーロー

僕は選ばれたたった一人のヒーローじゃない。むしろもし選ばれるなら、こんな命くれてやるのに。でも、くそったれな世界は続く。それなら、そんな世界で僕はやれるだけのことやってやるよ、負けねえぞ。そんな感じ。うん、素敵。現代人に響くのは、やっぱりこっちかな。ああでもどっちも好きだ、ミスチルもamazarashiも、やっぱりセクシーなのもキュートなのもどっちも好きだ、なんで最後あやや

 

 

 

 

せんせいあのね

村田先生(仮名)、お元気ですか。

私があの女子校を卒業して、もう20年以上経ちます。今思い返しても、あの学校で過ごした日々は、あまりにも特殊でした。だって、女の子しか、その場所に存在しなかったのだから。細々したルールばかりで縛り付けられてとても窮屈で、和歌山で一番ダサいと評判だった制服は苦痛でしかなく、校風は古いし、全部最悪だったのに、毎日不思議なほど楽しかった記憶しかありません。

ルルドの泉のレプリカも、毎朝歌う聖歌312番も、そして先生のことも好きでした。

和歌山市の中心部に学校があったために運動場が狭く、体育の時は和歌山城まで行って動物園の中などでマラソンをするのも面白かったです。女の子たちは誰も真面目に走っておらず、ツキノワグマの檻などを見たりしながら行う授業は大変平和でした。新緑の5月、緑の葉っぱってこんなに綺麗なのだなと、目の前に広がる景色を見てふいに感動してしまったのも体育の授業中です。

まさか数百年後の女子高生達がここの場所でスクワットや50メートル走をするとは徳川吉宗も想像していなかったでしょう。

キリスト教系でとにかく校則が厳しく、制服は可愛くなくて、抑圧的で閉鎖的な空間。でも私たちの心は自由でした。

それは、あの場には私たちの外見を上から下までジロジロ見てジャッジしたり、暴力的に振る舞う男子が皆無だったから。女が時に残酷になったり邪悪な存在に豹変するのは、そのうしろに大抵の場合男が糸を引いてることが多いのです。全部男が悪いとか言いたいのではありません。ある一定の女は「男の目があるところで急に底意地が悪くなる」のです。

ともかく、表面上は清い学校でした。頭は良くはないけれど、育ちの良い女の子が多かった。私も卒業するまで処女でしたし、高一の時の合宿で夜寝る前に彼氏の話になった時も、経験済みだった子は2人しかいませんでした。もっとも、自己申告なので、実際はどうかはわかりませんが。

当時のクラスメイトで非処女だった2人のうちの一人は、ものすごく小柄でかわいらしい小学生みたいな子でした。私は合宿から帰って彼女がもうすでに彼氏とそいうことをしたらしい、というのを母親に報告しました。母は「あの!Tちゃんが?!」と心底驚いていました。

Tちゃんが教えてくれた初体験の話は私には衝撃でした。というのも当時はスマホもパソコンもない時代。性の知識を普通のちゃんとした女の子が得る機会は学校の保健体育の授業だけでした。なので、保健体育で習った知識はありました。二次性徴があり、男性器を女性器にいれるんやろ、それで精子がでてきて受精するんやろ。そのぐらいしってるわ、と思っていました。でもTちゃんによると、男の人は挿入したら中で動かすというのです。しかも、何十分もそんなことが続いたと。

私はほんとうにびっくりして、その話を聞いた時大笑いしたのです。長すぎやろ、と。

だって、入れたらピュってでて終わりやと思ってたから。そんなあほな、って、いやいや。学校の授業では男性のピストン運動について教えてくれないじゃないですか。なので、挿れたらおわり、5分もかからないものだと思っていたのです。Tちゃんの話を、ホラ吹きだと言わんばかりに私はゲラゲラ笑っていましたし、その場のみんなも笑いましたが、ひょっとしたら何も知らない私のことを嗤っていた子もいたかもしれません。そのぐらい私は、清らかで阿呆でした。

なので、卒業してから、Nちゃんに村田先生のその後のお話を聞いた時とても……とても、興奮しました。

先生は、校内のシスターと、不倫をしていたんですよね。

神に仕える純潔な存在であるはずのシスター。校内には何人かの修道女がいましたが、一番美人だったあの人と、先生が、そうう関係だったというのを、あとになって私たちは知りました。Nちゃんは、裏切られた、穢らわしいと不快感を露にしてその話を教えてくれました。私はそれでも村田先生が好きで、むしろもっと好きだとさえ思えてしまったことは彼女には言えませんでした。

その後私は10歳年下の妹が当時飼っていたオスのカブトムシの虫籠に、新しく買い足したメスを入れてみたら、オスのカブトムシがものすごい勃起をしてしまったことにショックをうけるという、その程度の性の知識を更新できないまま高校三年生になっていました。

そこから時は流れて、私ももう、あの時の私と違わない年齢の女の子を育てるお母さんになりました。りっぱなおばさんです。先生はずっと素敵なままなのかな。私、先生のしたことがそんなに悪いことなのか、わからないです。

そして私のしたことが、悪いことだとも、思えないのです。

 

全部おまえがわるい

一昨日あたりから眠気が酷い。今朝も娘と夫を見送ったあと眠すぎてベッドに戻ってしまい、そのまま九時半まで爆睡した。そのあとたっぷり8分もある石野卓球のMVをだらだら布団のなかで見るなどして更に家を出るのが遅くなった。あとツイッターを見ててもイライラがとまらなくて、性欲も強くなっている気がして嫌だな、と思っていた矢先、さきほどトイレで血液を確認した。

なんのことはない、全部ホルモンの仕業だった。

私は本来はだらだら眠るようなことはしないしツイッターの投稿で腹を立てたりしないし性欲も強くない。全部生理が悪いし、生理のせいだとわかると、とても気持ちが晴れやかになった。

 

スペースの感想

先日ツイッターのフォロワーさんが、というかエックスのフォロワーさんが、というかエックスという呼び名に慣れていない以前に私は「フォロワー」呼びが何だか昔から苦手で、フォローしていただいてるのだからフォロワーに違いないのだけど、なんというか私のなかではそれ以上の関係のつもり、とか言うとまた気持ち悪いのだけど、とにかく、フォロワーよりも「友人」と呼びたい、だって私の書いた本を二冊も!買ってくださって!そして細部まで深く、とても丁寧に文章を読んで下さった人たちだから……

いや、でもそれも一歩通行かも知れないのでやっぱりフォロワーでいいや……と、そんな人たちが数名が、「エックスで表現すること」の様々についてスペースで話していた。それについていくつか感想があったので書きのこしておこうと思う。てか前置き長いねん。もうこの地点で読み始めた人半分ぐらい脱落してそう。


スペースの放送時は、マフィンを作りながら感想をメモしており、それを改めて見返しながら今頃になって書いているので、一部自分で書いた文の意味がわからなくなってしまったものもあるが、とりあえず順に書いていく。

 

・洗濯物が写された写真はSNSに載せない


これとてもよくわかると思った。

去年Fさんに(Fさんて。伏せる必要あるのか。藤子F先生みたい)会った時、夕暮れの道を歩きながらこの話をしたのを覚えている。その時、Aさん(今度はAさんて、安孫子先生やん)とも洗濯物の話をした、と仰っていた。私も、誰かの暮らす建物をSNSに載せる時、その家に干された洗濯物は、見えないようにトリミングしたり、投稿そのものをやめるようにしている。

そのぐらい、軒先に干された衣類と言うのは、生々しく、その家の息遣いを表す。

だからこそ魅力的に見える写真もあるだろう、しかしその生活感がどんなに絵になろうとも、それをツイッターという場で軽々しく不特定多数の人の目に晒すことを、私はどうしても躊躇してしまうのだ。

これは長年家の中で洗濯という役目を担ってきた女だからこそ持ち合わせる視点というか感覚なのかな、と思ったこともあった。でも今回のスペースを聞いて、男女は関係ないことに気付かされた。だって、そのぐらい、他人の洗濯物に対してあまりにも無遠慮な人が男性に多い気がしてたのだ。あまつさえ、その他人の洗濯物をメインの被写体に捉えた作品まで存在する。そしてそういう場合、大抵撮影者は男性だ。女性ものの下着が吊るされてるわけでもあるまい、といった具合に、写し出されるステテコ。面白い構図だ。年季の入った建物と相まって、良い味になっている、わかる、わかるのだけど。うん、私は、やらない。

そう、この感覚「私はやらない」ここらへんの線引きが、人によって異なる。ツイッターなんて誰もが自由に何を書き、撮り、表現しても良い。

ただ、その線を引くところの感覚、この曖昧なところの基準・価値観が自分と似ている人と出会えると、非常に安心する。そして、もうその人たちだけに届けばいいや、という感じになってくる。想定した以外の所に、自分の言葉が届くのが、怖いなと思う。とにかくツイッターは、常に自分が思いもよらない人の元へもメッセージが届いてしまうものだ。この話は書き始めたら長くなる。以前あるメディアの運営者が「嫌なら見るな」論を主張していて辟易した。表現する側、ましてメディアの運営や編集責任のあるものがそれを言ってはいけないと私は思う。私は誰かを傷付けないか、常に立ち止まれる人間でありたい。あれ、こんな話だっけ。ちがうな、これ長くなるやつだ、やめとく。

 

 

・行列のできるお店

私のまわりには、飲食店を経営する友人が結構多い。カレー、ラーメン、パン屋、カフェ、バー、などなど。

その友人たちに限って言えば、全員SNSをやっているし、それは宣伝のために運用しているのだから、当然お客さんもお店の写真はどんどん写真に撮って載せると良いというのが一般的なケースである。ただ、その中に一人、とびぬけた人気店を経営する友人がいて、彼のプライベートで吐露される愚痴は、人気店ならではの苦悩が滲んでいた。毎日店の前に行列ができて、そのたびにお客さんとご近所に謝ることが、精神に大変な苦痛を蓄積するのだというのは、初めて知った時はとても驚いた。一概に満員御礼、ではないのだ。とにかく、常時人が溢れかえるものだから、近隣の住民からまず苦情が出る。そして客側からも文句を言われる。口コミにも逆恨みのようなことを書かれる。

さらに、それだけ人気店なので、皆写真を撮ってツイッターなどに載せるのだが、それもまた、写真を撮ることがメイン、SNS投稿のために店にいく、というようなお客を呼ぶことになってしまい、中には本当に作ったものを殆ど口にせず帰る人もいるという。彼はそれだけ大きくなった店を維持するために正社員を雇っているのだけれど、たとえば人員の余裕のない所に、オーナーのキャパ以上の客を呼び込むとどうなるかというのは、明白である。なので、迂闊に店を宣伝できないという青丹さんの視点は、実はとても大切なのだと改めて思った。ともすれば「呟いてあげたよ」と無邪気に100パーセント善意のつもりでいることもあったので何事も一度立ち止まって投稿すべきだなと我が身を振り返ったのであった。

 

 

・蝙蝠


私も自分のこと、コウモリだと思ってきた、いつも。以前ライターをやっていたけど今は書かなくなったのは、私は本当は小説を書く人だから、と思っていた。でも今は日記すらもまともに書かなくなり、だけど私は本業文筆家じゃないし、デザインの仕事してるから、だから書けなくていいし。とか自分に言い訳してる、してるくせに、デザインの仕事に関しても、私は美大とかデザイン学校とか出てないし文章書きたい人だから、デザインのスキルは無くてもいいし、とか逃げてる時もある。そんなとき頭に浮かぶのはいつもイソップのコウモリの話。あの話は、自分はあるときは鳥でもあり、また別の場面では獣である、と自分を偽っていたのだけど、私の場合は「今の私はまだ本気出してない」言い訳のために、色んな立場を使い分けてきた気がする。あれ、なんでこの項目だけ字がちっさいの笑


 

・加太だけはわかる

ってメモに書いてたのだけど、これは自分でも意味がわからなかった。

・名刺

作るなら、よかったら私デザインします。コウモリデザイナーだけど。

 

・機材について

私がツイッターに載せる写真は9割スマホで撮影したものだ。そしてほんの少し、一眼レフで撮ったものが混ざっている。2009年ごろまでは、カメラを抱えて色んなところへ行った。出産してからも頻度こそ減ったけれど、カメラを構えることはあった。被写体は殆ど娘になったけど、それでも色々撮った。スマホを買うまでは。そう、スマホを持ってからの10年、私は一度もカメラを手にすることがなくなった。一番の理由はスマホの画像加工のしやすさ。影技術よりレタッチについて学ぶほうが先だろう、という仕事柄、その手軽さは革命だった。ちなみに持っているのはeos kiss x4で、子供が生まれる前から使っているけれど、ユーザーのメインターゲットはファミリー層だったかと記憶している。
プロのカメラマンではなくて、家庭の良い写真を残そうみたいな。死んだおじいちゃんが電気屋さんの口車に乗せられて買ったけど使わないからって私にくれた、お年寄り向けの機器。でも三脚も持ってたし広角も、高いのに全然使いこなせないマクロレンズまで使っていた。地元の写真コンテストでは賞なんかもらったりした。


今日そのカメラを、ほんまに10年ぶりに取り出した。間違いなく、フォロワーさんもとい、友人の影響だと思う。長年部屋の隅に追いやられていたそれは、ものすごい埃っぽくて、娘が嫌な顔をしながら私を見ていた。レンズの所、ギザギザしたゴムの部分が溶けてしまったのか、さわると手が黒くなる。バッテリーを充電する。はたして、動くのか。緊張しながら電源を入れると、懐かしい電子音。動いた。途端に興味を持ち始める娘。さっきまで嫌な顔をしていたのに、カメラを取り上げて色々なものにレンズを向ける。

「これからも出かけるとき、これもっていったらええやん」という娘に、そやな、という私。そうするつもり。

この前、尼崎の市営住宅スマホを構えた時、あー、軽いなあと思ったのだ。軽いのだ、自分の姿勢が。お手軽で、軽薄、スマホだから「かるうす」ではなく「けいはく」だな、と思ったのだ。軽くて薄いことは、モノによっては誉め言葉なのに、おかしいな。

私は別にカメラマンでもないし、日々の生活もあるのでどこに行くにもカメラを連れて行くわけにもいかない。イオスキスもそこそこでかい。ただ、たまには「ちゃんと対象と向き合いたい」日もある、そんなときは、カメラを持って出かけてもいいかなって思った。
それこそ、他人の洗濯物に向き合う真剣さも変わる気がする。まあ載せないんだけど、軽薄なスマホを向けるより、覚悟がある気がする。

という、マフィン焼きながらきいてたスペースの感想。

さよならだけが人生だ

一昨日、祖母が亡くなった。

昨夜はお通夜で、今日は葬式だった。二親等以内の家族の葬儀がこの1ヶ月間で、実に二度目である。

亡くなる前日、和歌山市の病院で祖母に会えたのは幸いだった。看護師がさらりと「最期にお孫さんきてくれましたよ」と言ってのけたので、すこしショックを受けつつ、本当にそうなのだ、このご時世、面会はそう何度も許されない。会えるのはもう「その時」が目前に迫っている時だけなのだ。おばあちゃん、私やで、来たよ。話しかけたら、すこし視線に反応があった。もう自分からは話せなくなっていたけれど、それでも私と娘の呼びかけ(というか泣き声というか)に反応してくれて、うっすらと、涙を浮かべていた。

 

まともに会話が出来たのは、昨年のお正月が最後だった。

その日も私と妹、そして私の娘との久しぶりの再会を楽しみに待っていた祖母は、面会の日にちと時間が書かれた紙の切れ端をずっと握っていた。何日もまえから私達に会えるのをずっと待っていたという。

コロナ禍になってから、面会もままならなくなった私達。

祖母のことも日常の忙しさで片隅に追いやられ、正直忘れながら日々をすごしていた。

でもおばあちゃんは私達に会うのをずっと楽しみにしてくれていたんだなあ、と、その握りしめた紙切れをみて切なくなって泣いてしまったのを今も覚えている。

祖母はとても元気な人で、とにかくよく食べるのだ。食欲が凄まじい人だった。今日藤沢から来たいとこ達とそんな思い出話をした。

私達親族はとても仲が良いと思う。

 

でもそれは、かげで私の母が沢山いろんなことを耐えたからだというのも知っている。

 

祖母はとても明るく元気で素直な人だったけど、私の母の苦労も私は一番近くで見てきたと思う。

 

母は泣いていた。そして、誰より祖母を好きだった父の心の内を案じているのだというのもわかった。

 

亡くなる前日、私と娘を祖母に会わせたときも、あの日、とにかく私達を避けて部屋に一人で居た父が、部屋でどうしていたのかは、私も母もよくわかっていた。

 

私の親が死ぬときはどんなんだろう。私が死ぬときは。何年後だろう。娘はどうしているだろう。みんな幸せだといいな。

月が今日も綺麗だけど、冬のお葬式は寂しいからもう嫌だよ。

葬式で笑う日まで


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さかのぼること9月、私は老人ホームにいる祖父と10月末に面会をする予約を入れた。コロナ以降、気軽に祖父母の面会に行くことができなくなり、最低でも一か月も前から施設に予約をとり、パーテーション越しに数分だけ話すのに、ここまでしないといけないことになってしまった。それもこれもコロナ対策なのだから仕方がないと言われればそうなのかもしれないけれど。

 

そして10月末の面会の日の前日、祖父は施設内で大腿骨を骨折した。さらにその日、施設でコロナが出たことによって濃厚接触者になってしまった祖父は、すぐに病院にいくこともできず、11月の初旬、奈良県内の病院に入院することとなった。

そして祖父と会って話したいという、私の願いは、その後、二度とかなうことはなかった。

 

12月3日までは苦しそうながらも、なんとか意識はあったという。

 

12月6日の家族LINE


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父と母は和歌山市から、妹は高野町から奈良の病院に向かった。

 

私はタイミング悪く、仕事でちょっとしたトラブルの対応に追われ、さらに娘の通院が重なり、この日病院に行くことができなかった。

いままでさんざん会いたいと言っても会わせてもらえなかったのに、意識がなくなりそうになってやっと会わせてくれるだなんて言われても。そんな憤りを病院には感じていた。腹をたてても仕方だ無いのだけど。

 

いや、無理をすればいけたのかもしれない。

でも、私は怖かった。この日祖父に会った他の家族はみな「苦しそうだった」と言った。苦しそうにしていない時は、寝ている時だけだと。

私は、私が行って何になる?と思った。苦しんでいるおじいちゃんの姿を受け止める勇気もなかった。

まだ行くのを迷っている、そう友人にLINEした。すると友人は「何ができるかとかそんな合理的なことは考えなくていいと思うよ」と返してくれた。迷っていると言っておきながら、私の心は決まっていたことを自覚した。明日会いに行こう。病院は奈良の山奥にあるのでどんなに急いでも帰りは遅くなることを見越し、義母に来てもらうことを頼んだ。仕事も休めるように段取りをした。

 

12月7日

 

早朝5時過ぎに病室の母親から連絡。声が涙で震えているのがわかった。

「おじいちゃん、いま、魂が体からすこしずつ出て行ってるんよ。でも、まだ声は聞こえてるから。あなたの声を、きかせてあげて。何か話しかけてあげて」

同じベッドで眠っていた娘も目を覚ました。そして、娘は声を上げて泣き出した。私はまだ頭が混乱して、何といってあげたらいいのかわからず、ただ、とにかく

「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼びかけた。そのうち涙がこみあげてきて、働かない頭でただひとこと「大好きやで。大好きやで、おじいちゃん」という言葉だけ絞りだした。娘もそう言っていた。

 

ともかく学校へ娘を送り出し、私は奈良の病院に向かった。大阪行きのJRに乗り、尼崎を過ぎたころ、祖父が息をひきとったという連絡が来たのだった。

窓の外に通り過ぎるグリコの工場をぼーっと眺めているうちに、電車は大阪駅に着いた。

そこからあまり意識のないまま、せっかく梅田まで来たのだからコーヒーでもと駅ビルに向かってみたり、かと思えばグランフロントに向かってみたり、阪急百貨店のROLEX売り場をうろついたり、かなりわけのわからない軌道を描きながら私は気付いたらホワイティのベルヴィルでモーニングを頼んでいた。

とりあえず、いつものようにパンケーキ二枚のセット、バターをたっぷりトッピングして注文した。

 

そして、ふと腕時計を見て、急に、涙がこみあげてきたのだった。その腕時計は祖父の形見だった。かくしてベルヴィルの店内で一人涙を流してる奇怪な中年女性は、そのあとトッピングまでしたホットケーキをほとんど食べることができないまま店を出た。残してしまったのが今も心残りだ。

 

帰りは阪急神戸線に乗った。そのまま今津線に乗り換えてから出勤して、翌日の葬儀で休むために最低限の仕事を済ませておかないといかなかった。この時期の印刷業は、とても忙しい。

 

今津線の最寄り駅から会社までは20分ほど歩くのだが、この間に、なんと私はこの日二度も宗教に勧誘されたのだった。ここに働き始めて5年ほどになるが、毎日通勤していてこんなことは初めてだった。たしかに私は、泣きながら歩いていたと思う。一人で泣ける時間なんてこの時ぐらいなのだから。

しかしああいう人たちの嗅覚たるや。

私は確かに泣いていたけれどマスクもしていたし、一応大人なのでそこまでわんわん大泣きしながら歩いていたわけではない。なのに「ご家庭で悩みとかありませんか?」って声をかけてきたのだ、あいつらは。すげえな。さすがに二人目に声をかけられたときはもう、なんか逆に感心しちゃって涙も引いたよね。悩み?ないよ。

あんたらの宗教も、死んだ人を生き返らせることはできねえだろう。

 

12月8日、12月9日

私の喪服のジャケットが見つからない。朝からバタバタ。ワンピースはあるのだけど、クローゼットの隅から隅まで何度見てもジャケットが無い。結局黒いカーディガンを羽織ることにした。

葬儀場に着くと、妹夫婦の姿が見えた。ちゃんとした喪服を着ている。ああ、しかも数珠をもっている。数珠、家族三人全員分忘れたよ。おじいちゃんなら笑ってくれるよね。

祖父の棺がおかれた部屋には、アルゼンチンタンゴの曲が流れていた。おじいちゃんが大好きだった、スペイン語のとても陽気な音楽。

それを聞いた瞬間、まだ対面もしていないのに、泣けてなけて。膝から崩れそうだった。音楽の力は、時に残酷だ。故人が好きだった曲を流すのはよくあることなのだと思う。おじいちゃんはこの曲が好きだった。あとはクラシックなら青く美しきドナウ、シューマントロイメライショパンノクターン2番。でもその曲調が明るく朗らかであればあるほど、胸が苦しくなるということを知った。お葬式に流すなら、ノクターンでも20番ぐらいの短調の旋律が良いのかもしれないと思った。

 

この日は、涙が枯れるほど泣いたのだけど、本当に悲しい日に違いなかったのだけど、とても良い日だったと、しみじみ思うのだ。

 

その理由はいくつかある。

まず、飾られた花。父方の祖父が亡くなった時は和歌山の葬儀場を利用したのだが、そこでは祭壇にたくさんの白い菊を飾っていたくせに、棺には少しの菊しか入れさせてもらえなかった。飾られた花はほぼ手付かずで放置された。おそらくあれは造花か、さもなくば次の葬式に使いまわすのだろうと思った。べつにそれで良いしそれがおかしいとか文句を言う余裕も家族には無かった。

 

しかし、今回のお葬式では、祖父のことを知る花屋さんが、白いストックと、良い香りのする白い百合、そして上品な薄紫のトルコキキョウをたくさん用意してくれた。

いかにも葬式です、みたいな菊ではなく、そのまま結婚式にも使えるような素敵なブーケをいくつも用意してくれて、それを最後はひとつ残らず棺桶に入れたのだった。

葬儀の花は菊で、使いまわされるんだろうとばかり思っていた私は、それだけでうれしかった。お花屋さんが奥の方で生前の祖父についての話をしているのが聞こえたのもうれしかった。葬儀社の社長さんも他の従業員のかたも、みな悲しんでくれた。そしてお別れの時間もたくさん作ってくれた。

お坊さんの話も、一つ一つ心をうつもので、母はとても感銘をうけていた。特に戒名について、「明るい人だった」ということでつけられたその名に、母は喜んでいたし、葬儀やさんも「うん、明るい人やった」と小さく頷くほどに、祖父は底抜けに明るい人だったのだ。こんなひねくれた私と、血が繋がっているとは思えないほどに。戒名なんて意味がないと思っていた。適当に死んだ人間に名前をつけてカネをとる簡単な商売だと思っていた。でも喜んでいる母をみて、そうじゃないんだと知ることができたのだった。

 

これだけ「特別扱い」されたのは、母がボソッと言うことには「だって〇〇家の葬式なんやから。」だそうだ。確かに、母の実家というか祖父の生家は、奈良県某市では歴史ある由緒正しい家柄なのであった。


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これは、私がツイッターで祖父の生家について呟いたときにフォロワーさんからいただいたリプなのだが、名前を出すと知っている人は「ひええ」となる家なのだそうだ。

 

だけど私の母は、それをアピールすることはまずなかった。

たしかに、家柄自慢なんて、無意味だ。

人間なんて目の前の本人が全てであり、見てもわからない血筋がどうのこうのと言うのは、まるでその場にない宝石を自慢するみたいで、今ここには無いけど家には沢山お金があるから私はすごいんですよ!みたいな、そんな話を他人にするのは虚しい。とたいうか母は宝石もブランド物も身に付けるもので血筋を誇ることもしないのだが。まあ、とにかくその○○家だから、良いお葬式にしてくれたのかな、と母は言ってたけど、それだけではないというのもわかっていただろう。だって、今回の葬式の喪主はうちの父親であり○○家の人が1人も来ない家族葬だったのだから。

それでもこんなに心を込めて葬儀を行ってもらえたのは、ほかでもない祖父の人柄なのだろうと思った。

 


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祖父の棺は、このマクドナルドのすぐ奥の火葬場で焼かれることになった。

火葬場についたとき、まだ火はついてないのだけど、なにかが焼けるようなにおいが辺りにずっと漂っていた。娘が「バナナケーキの匂いがするね」と言ったので夫がやめてくれ、と笑っていた。

笑うと言えば、意外とこういう日にも笑ってしまうことはしばしば起こる。例えば、この日うちの家族と火葬場でニアミスした一族がいたのだが、その人達の姿が凄かったのだ。

というのも、その一家の男性のうちの1人が烏帽子を被っているのである。

こんな時なのでジロジロ見るのは失礼なのだけど、私たち家族は全員一致で二度見していた。そして烏帽子以外の男性は紋付き袴を着ていた。おそらく天理教のお葬式の衣装だということだ。それについて、あとから会食した時に「みんなやっぱり気になってたよね?!」ということで盛り上がって笑ってしまった。

あとは、うちの父親はせっかちで段取りをすぐに無視してしまうのだけど、最後のさいごに、棺のお顔を見てあげてください、と火葬場の職員さんが棺の蓋をあけていたのに、父親はそれを見ずにさっさといってしまったのだ。その瞬間、全員が笑ってしまった。職員さんも吹き出していた。

 

遺体を焼く炉は三つ並んでいた。祖父は3と書かれた扉に入れられた。この瞬間が一番悲しいのだ。わかっていた。妹は、すかさず母の手をにぎってあげていた。私は片方の手をどうしようか迷った。こういう時さえ迷うのがどうしようもないな、と自分でも呆れてしまう。すると、私の横をすり抜け、片方の手を、私の娘がしっかりと握ってあげていたのだった。

この子がいてよかったなあ、と思った。

 

祖父の骨上げの時間まで、会食をすることになった。そこでも、みんな前の家族の衣装について喋ったり、緊張の糸が切れたように笑い合った。多分、こういう日にも笑いたくなるのは、防衛本能みたいなものなのかもしれないと思った。ずっと悲しいままだと苦しいから、体が笑いたがっているのかもしれないと思った。

夫などはあまりお坊さんにも思い入れが無いので「きょうのお経はライブバージョンでアレンジされてたと思う。CDで聞いてたやつと違う」「やっぱりオーディエンス(私たち家族)の数が少ないからライブもショートバージョンにされてると思う」などと言い始めたので私も「火葬場におった前の一家は大勢おったし、衣装も『ガチ勢』やったから、坊さんのお経もロングバージョン聴けたやろね」などとしょうもない話をして笑っていた。

会食をしたあとも、まだ時間があったので、私は一人で散歩をすることにした。祖父と二人で歩いた道を、一人で。ノクターン長調の2番と短調の20番を聴きながら。


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ここでよくたこ焼きを買ってくれた
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この店では牛乳とパンを買った。


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どこを歩いても、思い出しかない。

 

そうこうしているうちに、骨上げの時間になった。火葬場に戻ると、さきほど父のことを笑っていた職員さんが、お骨の説明をしてくれることになった。そのとき驚いたのが、そのかたが、祖父の骨を素手で持って説明し始めたことだ。肉親でもちょっと素手は抵抗があるのだが、その人は何のためらいもなく祖父の骨の説明を始めた。まずは恒例の喉ぼとけについて。そして、お墓に余裕がある場合は、箱につめられるだけ、好きなだけ骨を入れて下さいと言ってくれた。そんな、野菜の詰め放題みたいなこと言われましても、と思って、それもちょっと笑ってしまった。

骨上げは、足の骨から順番に上に向かって拾っていく。大腿骨付近には、数日前に手術で入れたばかりの人工関節が残っていた。「いれたばっかりやのに、もったいない」と父は言った。私は指の骨を拾う時、大好きなおじいちゃんの手を思い出して、また泣いた。そして最後は頭蓋骨。みんなでひとつずつ、丸いそれらを、被せながら箱に詰めた。そのあと最後に、職員のかたが上からおさえつけて骨をバキバキと砕きはじめたのだった。娘はその音がとても怖かったと言った。

ともかく、すべて、おわった。

 

その後、年金の停止の手続きやら、いろんなことをほとんど父母妹に押し付けて、私は一足早く日常と自宅に戻った。明日からまた仕事だ。気がかりな案件も放置したままである。なんというか、もうすっかり、すべて元にもどった。

 

でも、何の前触れもなく、思い出が胸をしめつけたりする。そっか、こんなふうにかなしみは、ふとした時にやってくるものなのだな。

お葬式は何度か出たことはあったけれど、ここまで好きだった人の死に向き合ったのは、今回が初めてだった。私は奈良の祖父のことが本当に好きだった。祖父の日記を本にして出版するほどに。

 

祖父の葬式の日、友達がこの記事を送ってくれた。

www.sougiya.biz

おじいちゃんを思い出すとき、そこに浮かぶのは記憶の中の幻ではなく、それはおじいちゃんそのものなのだということ。だから、私や家族、そして祖父の日記本を買ってくれた人たちの心の中にも祖父の像があるかぎり、祖父はそこにいるのだと思う。そう思う。

 

日記本といえば、祖父の本は大阪のシカクさんで販売してくださっているのだが、じつはシカクさんに委託をお願いする前に、東京の某本屋の委託フォームから祖父の日記本の販売の依頼を送ったのだ。二回も。しかし返事が来なかったので、実物を添えて店舗にもお送りしてみた。その上でオーナーさんにはメールもしてみた。しかし、一切の返事はいただけなかった。

まあ向こうも商売である。売りたくないものもあるだろう。だとしても。フォームをあのようなオープンなつくりにしておきながら、何の返信もないというのは、どうなのだろう、コミュニケーションとして、普通なのですか?

ちなみにあなたが売り物に値しないと判断した祖父の本、めちゃくちゃ売れてます。残念でしたね。嘘やと思うならシカクさんに問い合わせてみてください。

昨日まで綺麗な気持ちで生と死について考えていた私ですが、今日は奇しくもその店のツイートが流れてきたのでどす黒い気持ちでいっぱいになり、儚い想いはどこへやら。舐めた商売してる人の末路を見届けるまで俺は死なねえぞ、という決意でいっぱいになりました。

 

私、好きな人達より先に死んで、愛する人に私のために泣いてもらいたいんです。

 

でも、嫌いな人よりは、絶対長生きしたいんです。おまえの葬式、烏帽子でも十二単でもなんでもええから、ゲラゲラ笑うと決めたので。

 

お誕生日おめでとう。

昨日仕事から帰ると娘が大変憤りながら「岸田さんは国民の声にもっと耳を傾けてほしい!」と言っており、どうしたどうした社会派やなあ、と思ってよくよく話を話をきいてみると「国葬会場の近くの小学校だけ休校になるのはずるい!!」とのことで、ああそういうことか、と笑った。そしてこの子は、やはり学校が嫌いなのであった。

この頃からは、幾分、登校拒否もマシになったとはいえ。

mikimiyamiki.hatenablog.com

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それで今朝のこと。やはり「行きたくない」ときたもんだ。

 

私ももう、いくらか慣れてきて、何か本当に深刻ないじめに遭ってるというわけではなく、でもやはり生きていれば単発的に嫌な出来事はあり、そういうの全部「逃げていいよ」なんて言っていいのかわからないけど、もう、今日は休ませよう、と思った。国葬だし。

ネットには無責任に子供には好きなだけ学校を休ませてあげて、みたいな言説があふれていて、そりゃね、誰だって自分の子が苦しんでるの見たくないよ、でもさ、例えばいじめてるやつがいて、そいつはのうのうと学校で勉強出来て、傷ついた子だけどんどん社会から遠ざかっていくの、それって正しいの?とか、親は思うよ。

だけど辛すぎて心がつぶれてしまったら取り返しがつかなくて、そうなる前には絶対学校から逃げたほうがいいし、もう、何が正しいのかなんてわからないんよ。

ずっとわからないまま、ここまできた。


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一昨日大阪文フリで購入したこの本を読みながら、忘れていたこと、忘れられないこと、色々な記憶を思い出していた。

 

この本を書いたのは私の友人の奥様だ。2020年に女の子を出産された時の妊娠出産の記録である。とても個人的なことのようで、誰もが通る道でもあるような、日々の記録が丁寧にそして赤裸々に綴られていた。旦那さんのほうもよく知った人なので、途中の記述に何度も「なんて良い夫なんだ!」と、笑ってしまった。いや笑うところではないのだけど、こんなに優しくて素敵なパパなんだなって、普段はわりと辛辣なことをいう姿も目撃するので、なんだかほっこりして。

 

ちなみに、知り合いだから、という理由で買ったわけではない。手にしたとき、わ、読みたい!と心から思えたから。

まず、装丁が本当に素敵なのだ。リトグラフ印刷で二色刷りされた紙面は、独特のぬくもりを感じさせる。それは内容の温かさと相まって、読めば読むほど魅了される仕掛けとなっている。また、中綴じで縫い合わせに使われた糸の色がとても可愛いくて、冊子にマッチしている。インクうつりを防止するためのトレーシングペーパーも実用的な面のみならず柔らかな印象がいい。

なにより表紙をはじめとしたエディトリアルデザインの素晴らしさは、デザイナーでなくても手にした時に圧倒されてしまうと思う。

こんな素敵な本を、1歳児を抱えて作ってしまう、その才能が眩しかった、が、これは才能だけで作れる本ではないのだ。

この本は、子供を慈しむお母さんにしか、作ることができない内容なのである。

たとえ才能が、センスがあろうとも、それだけでは完成しない、だからこそこの本のまっすくな、時に荒々しい言葉にも心を打たれるのだった。

 

* * *


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私も、今回の文フリで子供を産み育てていくことに関しての小説を出した。新潮社の新人賞で1次は通過したものだ。ついでに二次も通過した作品も本にした。過去最高応募数の中で、上位数パーセントには何度か選ばれた。

でも、そのあとで落とされて、誰の目にも触れることなく、闇に消えるはずだった小説だ。

何度も何度も挑戦しては落ち。さすがに落ち込むときもあった。

そんなとき、友人の太田明日香さんに、賞にこだわらず、本にしてみては?と提案されたのだ。そして、あつかましくも友人ライター高下さんのブースにあとから飛び入り参加して本を出させていただいたというわけである。

小説コーナーではなかったにせよ、「新潮社R18文学賞1次通過」とポップに書いただけで、分かる人はすぐに反応してくれた。そして、実際に読んだ子育て世代の方からは、とても嬉しい感想をいただいた。

 

https://twitter.com/pi_hi_kyo/status/1574312936054484992?t=yKP3hMkx6Bzu1uIYvIi2sA&s=19

 

本当に、形にして良かったと思えた瞬間だった。

今この国で子供を持つことはなかなか過酷である。お金がかかる、世間の目は厳しい、なんだそんなのわかっていただろう、だったらうむな、自己責任……まるで身の丈に合わない贅沢品に手を出してしまったかの如く叩かれる、生み育てる者たち。

はいはい、うまないあんたらは正しいですよ、その通り、正論、ぐうの音もでません。

はいはい、賢い賢い。

でも、賢い人が反論できないバカを殴るのって、下品だなあと私は思ってね。妊娠出産は病気じゃないし最弱者でもないし、子育てしている者達を労れ大切にしろとか言うつもりは微塵もない。勘違いする妊婦様や子連れは論外だ。しかし、いたわってくれなくていい、特別扱いもしなくていいから、ただここで、子供と存在することは、静かに認めてくれませんか。他人が産み育てることが、そんなに、気になりますか。

それでこの本を、必死でバカみたいに子供のために生きることしかできないものとして、バカ視点で世の中に中指突き立てるつもりで書いた小説です。

なんて不穏な。

 

 

「今日は休みます」そう学校に連絡した時、先生に理由をきかれて「国葬だから」と答えればよかったかな。

週末は、娘の12回目の誕生日。いつもは私が手作りケーキを焼くのだけど、今年はスプラ3好きの娘のリクエストでサーティーワンのアイスケーキを予約した。

 

生まれた日から地獄みたいなこの世に引きずりだされた貴女を、私は守るよ。わけのわからん国葬も、いろんな荒波も、もちろん楽しいことも、全部飲み込んで笑って一緒に生きよう。

貴女がいつか、一人で生きられるようになるその時まで。