珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

スペースの感想

先日ツイッターのフォロワーさんが、というかエックスのフォロワーさんが、というかエックスという呼び名に慣れていない以前に私は「フォロワー」呼びが何だか昔から苦手で、フォローしていただいてるのだからフォロワーに違いないのだけど、なんというか私のなかではそれ以上の関係のつもり、とか言うとまた気持ち悪いのだけど、とにかく、フォロワーよりも「友人」と呼びたい、だって私の書いた本を二冊も!買ってくださって!そして細部まで深く、とても丁寧に文章を読んで下さった人たちだから……

いや、でもそれも一歩通行かも知れないのでやっぱりフォロワーでいいや……と、そんな人たちが数名が、「エックスで表現すること」の様々についてスペースで話していた。それについていくつか感想があったので書きのこしておこうと思う。てか前置き長いねん。もうこの地点で読み始めた人半分ぐらい脱落してそう。


スペースの放送時は、マフィンを作りながら感想をメモしており、それを改めて見返しながら今頃になって書いているので、一部自分で書いた文の意味がわからなくなってしまったものもあるが、とりあえず順に書いていく。

 

・洗濯物が写された写真はSNSに載せない


これとてもよくわかると思った。

去年Fさんに(Fさんて。伏せる必要あるのか。藤子F先生みたい)会った時、夕暮れの道を歩きながらこの話をしたのを覚えている。その時、Aさん(今度はAさんて、安孫子先生やん)とも洗濯物の話をした、と仰っていた。私も、誰かの暮らす建物をSNSに載せる時、その家に干された洗濯物は、見えないようにトリミングしたり、投稿そのものをやめるようにしている。

そのぐらい、軒先に干された衣類と言うのは、生々しく、その家の息遣いを表す。

だからこそ魅力的に見える写真もあるだろう、しかしその生活感がどんなに絵になろうとも、それをツイッターという場で軽々しく不特定多数の人の目に晒すことを、私はどうしても躊躇してしまうのだ。

これは長年家の中で洗濯という役目を担ってきた女だからこそ持ち合わせる視点というか感覚なのかな、と思ったこともあった。でも今回のスペースを聞いて、男女は関係ないことに気付かされた。だって、そのぐらい、他人の洗濯物に対してあまりにも無遠慮な人が男性に多い気がしてたのだ。あまつさえ、その他人の洗濯物をメインの被写体に捉えた作品まで存在する。そしてそういう場合、大抵撮影者は男性だ。女性ものの下着が吊るされてるわけでもあるまい、といった具合に、写し出されるステテコ。面白い構図だ。年季の入った建物と相まって、良い味になっている、わかる、わかるのだけど。うん、私は、やらない。

そう、この感覚「私はやらない」ここらへんの線引きが、人によって異なる。ツイッターなんて誰もが自由に何を書き、撮り、表現しても良い。

ただ、その線を引くところの感覚、この曖昧なところの基準・価値観が自分と似ている人と出会えると、非常に安心する。そして、もうその人たちだけに届けばいいや、という感じになってくる。想定した以外の所に、自分の言葉が届くのが、怖いなと思う。とにかくツイッターは、常に自分が思いもよらない人の元へもメッセージが届いてしまうものだ。この話は書き始めたら長くなる。以前あるメディアの運営者が「嫌なら見るな」論を主張していて辟易した。表現する側、ましてメディアの運営や編集責任のあるものがそれを言ってはいけないと私は思う。私は誰かを傷付けないか、常に立ち止まれる人間でありたい。あれ、こんな話だっけ。ちがうな、これ長くなるやつだ、やめとく。

 

 

・行列のできるお店

私のまわりには、飲食店を経営する友人が結構多い。カレー、ラーメン、パン屋、カフェ、バー、などなど。

その友人たちに限って言えば、全員SNSをやっているし、それは宣伝のために運用しているのだから、当然お客さんもお店の写真はどんどん写真に撮って載せると良いというのが一般的なケースである。ただ、その中に一人、とびぬけた人気店を経営する友人がいて、彼のプライベートで吐露される愚痴は、人気店ならではの苦悩が滲んでいた。毎日店の前に行列ができて、そのたびにお客さんとご近所に謝ることが、精神に大変な苦痛を蓄積するのだというのは、初めて知った時はとても驚いた。一概に満員御礼、ではないのだ。とにかく、常時人が溢れかえるものだから、近隣の住民からまず苦情が出る。そして客側からも文句を言われる。口コミにも逆恨みのようなことを書かれる。

さらに、それだけ人気店なので、皆写真を撮ってツイッターなどに載せるのだが、それもまた、写真を撮ることがメイン、SNS投稿のために店にいく、というようなお客を呼ぶことになってしまい、中には本当に作ったものを殆ど口にせず帰る人もいるという。彼はそれだけ大きくなった店を維持するために正社員を雇っているのだけれど、たとえば人員の余裕のない所に、オーナーのキャパ以上の客を呼び込むとどうなるかというのは、明白である。なので、迂闊に店を宣伝できないという青丹さんの視点は、実はとても大切なのだと改めて思った。ともすれば「呟いてあげたよ」と無邪気に100パーセント善意のつもりでいることもあったので何事も一度立ち止まって投稿すべきだなと我が身を振り返ったのであった。

 

 

・蝙蝠


私も自分のこと、コウモリだと思ってきた、いつも。以前ライターをやっていたけど今は書かなくなったのは、私は本当は小説を書く人だから、と思っていた。でも今は日記すらもまともに書かなくなり、だけど私は本業文筆家じゃないし、デザインの仕事してるから、だから書けなくていいし。とか自分に言い訳してる、してるくせに、デザインの仕事に関しても、私は美大とかデザイン学校とか出てないし文章書きたい人だから、デザインのスキルは無くてもいいし、とか逃げてる時もある。そんなとき頭に浮かぶのはいつもイソップのコウモリの話。あの話は、自分はあるときは鳥でもあり、また別の場面では獣である、と自分を偽っていたのだけど、私の場合は「今の私はまだ本気出してない」言い訳のために、色んな立場を使い分けてきた気がする。あれ、なんでこの項目だけ字がちっさいの笑


 

・加太だけはわかる

ってメモに書いてたのだけど、これは自分でも意味がわからなかった。

・名刺

作るなら、よかったら私デザインします。コウモリデザイナーだけど。

 

・機材について

私がツイッターに載せる写真は9割スマホで撮影したものだ。そしてほんの少し、一眼レフで撮ったものが混ざっている。2009年ごろまでは、カメラを抱えて色んなところへ行った。出産してからも頻度こそ減ったけれど、カメラを構えることはあった。被写体は殆ど娘になったけど、それでも色々撮った。スマホを買うまでは。そう、スマホを持ってからの10年、私は一度もカメラを手にすることがなくなった。一番の理由はスマホの画像加工のしやすさ。影技術よりレタッチについて学ぶほうが先だろう、という仕事柄、その手軽さは革命だった。ちなみに持っているのはeos kiss x4で、子供が生まれる前から使っているけれど、ユーザーのメインターゲットはファミリー層だったかと記憶している。
プロのカメラマンではなくて、家庭の良い写真を残そうみたいな。死んだおじいちゃんが電気屋さんの口車に乗せられて買ったけど使わないからって私にくれた、お年寄り向けの機器。でも三脚も持ってたし広角も、高いのに全然使いこなせないマクロレンズまで使っていた。地元の写真コンテストでは賞なんかもらったりした。


今日そのカメラを、ほんまに10年ぶりに取り出した。間違いなく、フォロワーさんもとい、友人の影響だと思う。長年部屋の隅に追いやられていたそれは、ものすごい埃っぽくて、娘が嫌な顔をしながら私を見ていた。レンズの所、ギザギザしたゴムの部分が溶けてしまったのか、さわると手が黒くなる。バッテリーを充電する。はたして、動くのか。緊張しながら電源を入れると、懐かしい電子音。動いた。途端に興味を持ち始める娘。さっきまで嫌な顔をしていたのに、カメラを取り上げて色々なものにレンズを向ける。

「これからも出かけるとき、これもっていったらええやん」という娘に、そやな、という私。そうするつもり。

この前、尼崎の市営住宅スマホを構えた時、あー、軽いなあと思ったのだ。軽いのだ、自分の姿勢が。お手軽で、軽薄、スマホだから「かるうす」ではなく「けいはく」だな、と思ったのだ。軽くて薄いことは、モノによっては誉め言葉なのに、おかしいな。

私は別にカメラマンでもないし、日々の生活もあるのでどこに行くにもカメラを連れて行くわけにもいかない。イオスキスもそこそこでかい。ただ、たまには「ちゃんと対象と向き合いたい」日もある、そんなときは、カメラを持って出かけてもいいかなって思った。
それこそ、他人の洗濯物に向き合う真剣さも変わる気がする。まあ載せないんだけど、軽薄なスマホを向けるより、覚悟がある気がする。

という、マフィン焼きながらきいてたスペースの感想。