珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

何を着るか=どう生きたいか、ということ。

怒涛の年度末が過ぎ去った。
年度末が地獄なのは毎年のことだが、少し前から役所の人事異動に関する業務を請け負うことになったために3月から4月の作業量が異常に増えた。
 
しかも、今年度はさらに最悪なことに子供の小学校の役員を3つも兼任するはめになってしまっていた(しかもうち一つは副会長)ので、かつてないほどの過密なスケジュールに心が何度も折れそうになった。
友達の誘いも何度か断ることになってしまった。
 
それでも、そんな中で今年もサンポーの本に記事を無事寄稿できたこと、そして、タクシー運転手ぜつさんの本の表紙のデザインもできたことは本当によかったし、忙しい中でもこの仕事だけは断りたくなかったのでとても頑張ったと思う。
さらに、その合間に自分の祖父母の家のガラス窓をモチーフに栞を作ってマニアフェスタで販売することもできた。もちろんその間家事も子育てもしている。我ながらものすごい生命力で今年前半を乗り切ったと自負したい(まだ前半終わってないけど)。
 
これもひとえに、我が子が今年は安定して楽しそうに学校に行ってくれているからこそなのだ。昨年は、本当に大変だった。
 
しかしやはり忙しすぎて時間が無いというのは事実で、まず日記を書く余裕がなくなった。しかし、どんなに時間が無くても、本当は文章を書き続けるべきなのだと思う。
小説家になりたいのであれば。小説家になりたいのなら、本当は毎日ちゃんと書くべきなのだと思う。
 
***
 
ずっと日記に書かなくてはと思っていることはいくつかあって、まずは昨年太田明日香さんに誘っていただいたイベントで購入したいくつかのエッセイについての感想である。
 
その催しはこちらの太田明日香さんのレーベル「夜学舎」から出ている「B面の歌を聞け」の出版イベントだった。
この本のコンセプトは「服の自給を考える」ということで、私も趣味で洋服を作っているので、エッセイを寄稿させていただいた。
 

yagakusha.hatenablog.com

 

太田さんは、私がどんなに文学賞に落ちて腐っていじけていても、いつも何かしら創作に関しての場を与えてくれて、コンクールなど声をかけてくれる。

本当にありがたいと思う。

 

このイベントでは、多くのお客さんやファンが太田さんに会いに来ていたわけだが、そういった場でも気疲れなど一切見せることなく、堂々と会う人全てに丁寧にお話をしていて、凄いと思った。

わたしなど、横で何もせず突っ立っているだけだったのに、知らない人と話すことに緊張して、全くなんの役にも立たないくせに疲労感だけはいっちょまえであった。

 

そして、太田さんは、文章がとても綺麗で優れているとか、編集能力が高いとか、色んなメディアで連載したり執筆しているとか、そういう文筆家としてももちろんすばらしいのだけど、自分で本を作って出版する行動力がある人なのだ。

すごくカッコいいし、こんな尊敬できる人と友達で良かったと、凄いのはあくまで太田さんなのに、なぜかこんな友達がいる自分自身が誇らしく思えてくるほどだ(よくわからない理屈で無理やり自分をほめるポジティブすぎる私)。

 

更に今回、このイベントを通して「自分で書いて・作って・売る」をしている、太田さん以外の人にも出会うことができた。

 

こちら「ノーブラZINE」を書いた「かみのけモツレク」さんである。


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「この夏、絶対はずせない、モノなど無い」

まずは、このコピー、すごくないですか。

コラージュのタイトルデザインがオシャレ。シルクスクリーン印刷という手法も味わい深い。

 

かみのけモツレクさんのこのノーブラZINEに、私はもう、ほんまに心を射抜かれたのだった。彼女に会って、そしてこのエッセイを読み終えた時、私は仲の良い友達に長文メールで「今日会った女性がどんなにすごかったか」を切々と説いた。

そもそも、女がノーブラについて語るとき、とてもセンシティブというか、性的になりがちだと思う。そういう、変な空気になりそうなテーマなのに、とてもニュートラルで自然でいやらしさが無い文章なのだ。ポップな装丁も良いのだと思う。

 

私は性格が歪んでいて、かなりルッキズムにとらわれている人間なので、初めかみのけモツレクさんの文章を読んで、シャンプーで頭を洗わないことも、ノーブラでオーバーサイズの服を着ることも、たとえそうやって着飾らなくても尚とてもキュートな見た目に生まれたカミノケさん(ちょっとお名前を略させていただきました)の特権で、多くの女にはそんな自由な生き方は出来ない、と思った。

 

事実カミノケさんは色白で顔が小さく、目のぱちっとしたすごく可愛い顔をしているし、例えば私みたいなもんがノーブラノーメイクノーシャンプーにしたらどうなるか、目も当てられない、と思ったりもした。そんな僻みのような感想も、初め浮かんだりもした。

だけど、読めば読むほど、彼女はそういうつまらない次元にはいないのだということがわかってきた、というか、私自身のなかに、「じゃあどうしてブラジャーをしたいのか、化粧したり、実際より胸もなにもかも、盛りたいのか?本当に必要なのか」という疑問もわいてきたのだった。そう、多くの女にとって、おそらくなぜブラジャーをしないと「いけない」のか、なんて、考えたことも無いことだったのだ。もっと自由でいいんじゃない?そう言われても、かなりびっくりしてしまう女が大半なのでは。だってそんなの当たり前じゃない、ブラジャーするの。……当たり前。本当に?

 

そして私は、去年の11月頃から、ほとんどブラジャーもブラトップもしないで会社に行くようになった。

かみのけさんのエッセイに出合ったのは11月。冬服は、もともと着重ねて分厚いし体の線を拾わない。ノーブラ生活を始めるにはもってこいだった。

べつに無理をしてそうしてるわけでもない。着る服によってはブラジャーをするときもある。また、現在は5月でそろそろTシャツ一枚の季節が到来する。そうなると私は手持ちの服が体にピタッとしたデザインの手持ち夏服が多いので、またブラジャーをすることが増えた。ただ、選択肢として、ブラジャーは無くてもいい、これが私の人生に現れたのは大変なことだったのだ。

そもそも、かみのけさんはノーブラを他人に強制などしていない。ただ、彼女の自由な生き方を、こうして文章にして、そういう考えもあるよ、ということを教えてくれているだけなのだ。そこから個人がどう動くかはまた別の話である。ただ、私の世界は確実に変わったと思ったのだった。

 

私は、恐ろしく、自分に自信がない。そして人の目がとても気になる。コンプレックスも多い。

ここで私の持っている「洋服」と、自信のなさ、今までの生き方を振り返るきっかけになった一冊を紹介したい。


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真っ赤な装丁が印象的な、佐々木ののかさんのエッセイ「わたしと服」である。

こちらもB面の歌を聞けイベントで購入した一冊。佐々木ののかさんのこれまでの洋服遍歴を人生の出来事とともに振り返る構成になっており、この一冊もまた、多くの人の心に刺さると思った。

なんというか、言われてみれば、どんな服を選んできたかを振り返るということは、私の場合は特に「人にどう見られたいと思ったか」の遍歴なんだよな、とあらためて気づかされたのだ。ののかさんの歴史は、中学生の頃指定のジャージの刺繡を縫いかえるところから始まる。パラダイスキスがでてきたり、マルジェラしか着ないオシャレな男の子の話、そして「あなた」の章ではハッとさせられた。私は、いま子供を育てている。それはたしかに、「私がここに存在して良い理由」であると思うふしはあるよな、と思ったのだ。この部分の話はそれだけでまた長く語りたくなるので、洋服のことについて、話を戻そうと思う。

 

 

私が私の服を語るとき、思考を巡らせると、どうしても自分の母親・母親の生き方に行きつくのだった。

私の育った家庭は裕福だった。それなのに、母親はいつも、みすぼらしい服を着ていた。

なぜなら、母は結婚した女の仕事は家事と育児だけだと信じて疑わなかったし、母の家事育児はそれはもう完璧であったと思う。ただ、本当に洋服に関して贅沢をしない人だった。母が服を選ぶ基準はただひとつ。「いかに家事がしやすいか」この一点のみであった。そして義両親と同居していた母は常になにかしらの掃除や洗濯、料理などに追われていた。それらを完璧にこなすために。家事なんて、ちゃんとやろうと思ったら終わらないよ、今の私ならわかる。そしてそんないつもボロボロの服を着た母親が、私は内心恥ずかしかった。

 

洋服や鞄で贅沢をしてはいけないのだと刷り込まれた私が、やがて自分で服を作るようになったのは自然な流れであった。それも材料はできるだけ安価なものを揃える努力と工夫をした。そのあたりは、B面の歌を聞けのエッセイにも活かされたと思う。

私が大学生の頃、00年代は、女子大生がブランドバッグをもつことが普通であるかのような雑誌記事が多かった。鞄を買うお金なら持っていた。でも、そんなことにお金を使ってはいけないと思った私は、服飾学校にかよっていたわけでもないのに、何着も自分の服を作ったのだった。

その後就職してからも相変わらず私は安い服しか買わなかった。ちょうどそのころから、世の中にファストファッションの波が押し寄せたのだ。私は「昔より安く服が買える!」という喜びで、値段だけに飛びついてしょうもない服を山ほど買った。

 

諸々時の流れを端折るが、私は出産を機に仕事をやめた。そして専業主婦になった。

ここで私は、以前に増して「母のように慎ましく生きなければいけない」と思うようになった。なぜなら、私は一銭も稼がない人間なのである。今ならわかる、子育てがどれほど大変で、そんなに卑屈になるような立場ではないことぐらい。でも、私は無職である自分に負い目を感じ、そして自分の母は服なんか買わなかったこと思い、洋服を買うのをやめた。

 

更に、それまで買った服の中でもお気に入りの「お出かけ用」ではなく、どう見てもボロボロの「部屋着」のようなものを着る日々が大半となった。

専業主婦になり大切な服を着て出かけるような用事がほぼなくなってしまったのだ。そして、部屋にいることが多いのだから必然的に部屋着にもなる。

なにより、乳幼児の子育ては、めちゃくちゃ服が傷むのだ。

つねに抱っこしているので擦れて毛玉だらけに。よだれや排泄物が付くことも多い。小さな子供は、服がびろんびろんになるまで布を引っ張ってくる。

かくして私は、気付けば、いつ見てもボロボロのお母さんになっていた。

 

そうすると何が起こったか。

よちよち歩きが始まると、子供を公園に毎日連れて行ってたのだが、このあたりは土地柄なのか、公園で子供を遊ばせるだけなのに、ものすごく綺麗に髪を巻き、化粧をし、ブランドバッグを持ってくる人が大半だった。

たまたま、通った公園の層がそうだったのだろう、今ならわかる、運が悪かった。

しかし私は、あからさまにその場で浮くことになった。被害妄想かもしれないが、仲間に入れてもらえないことがしばしばあった。そして子供をプレ幼稚園に通わせるようになり、ひとつの結論に達した。

「オシャレ着をおでかけ用にしてしまうと、月に一回もそんな日が来ない。でも子供を連れて外出は嫌でも毎日しなくてはいけない。その時こそちゃんとした服装をしないと馬鹿にされる」。

そう思いなおし、タンスにしまっていた『ちゃんとした服』を着て子供と出かけるようになった。それ以来、ずっと私は「舐められたくない」「娘のためにこそ、綺麗なお母さんでいなくては」と思うようになった。

子供が乳幼児の頃の付き合いは、母親も必ず同伴なのだ。私がみすぼらしい母親だと思われると、子供に迷惑がかかる……そう思って、頑張ったのだ。

私は身長がかなり高く、パッと見たらスタイルが良いと言われることがおおい。実際は脱いだらそんなことはなく、そして肉が圧倒的に少なく、尻と胸はペラペラだ。しかし、布をまとえばそこは一気に補正されてしまう。

これは、良い意味でもそして悪い意味でも「洋服のちからを引き出してしまう」体型なのだと自分でも思う。

つまり、オシャレに気を遣ってちゃんとした服装をしていたら「モデルみたい」などと言われるのだが、ひとたび変な服を着れば、そのマイナスのパワーすらも目立たせてしまうのである。

さらに、これは以前日記にも書いたことがあるし、おそらく人から裂けられていた決定的な要因のひとつは「アフロみたいなパーマヘア」をしていたからというのも大きいと思う。写真を見返しても本当におかしいからな、私。アフロで、チューリップ帽子をかぶって、ボロボロの服を着た、やたら背の高い女。

そこからまた、ごく普通に洋服を着こなす私に戻ると、近所のママたちとの関係が円滑になたというのは気のせいかもしれないが、ある時あからさまに私を避けていたママが「あら!mikimiyaさん、そんな服装するんや!!」と言ってきたのである。あの台詞が忘れられないし、あーやっぱりな、と思うには十分な出来事だったのでいまだに私の脳裏にあの日のことがこびりついている。

 

ただ、そんな日々にもまた、徐々に変化が起こった。まず、私は働き始めた。

抱えるものが多くなった。そして、娘は成長した。

私の存在が無くても、もう勝手に人間関係を築くことができるのだ。私は、近所の、そんな人を見た目で仲間外れにするような人を気にしなくても、心から仲良くできるママ友もできた。私が変なアフロにしてる時からずっと仲良くしてくれるママなのだから本物だ。彼女のことも何度かブログに書いたが、とても素敵な女性である。

そして現在は、誰かの目を気にしてとかではなく、その日私がしたい格好をするようになった。そこに、ノーブラという選択肢が増えた。

 

こんなふうに、心地よく生きられる環境をこれからも整えていきたいなと思う。

 

最後に、ふたたびあの日のB面の歌を聞けイベントの感想がまた今蘇って来たので書き残しておくと、太田さんはもちろん、あの日出会った人、みんな心地よい人たちばかりだった。私は、今まであまりにも無理をして、自分を良く見せないと仲間にいれてもらえなかったり、馬鹿にされたり、そういう経験をしすぎて、卑屈になりすぎていたのだと思う。あの日であった人は、誰も無理に背伸びをしたり変に自分を良くみせようとしてこなかった。だから私も、必要以上に遜ったり、また虚勢を張ることもしなかった。そういう自分でいられる人たちとの縁を、これからも大切にしたいなと思ったのであった。