「貴様がそう見えるなら、そうなのだろうな。しかしその答えは、お前の内なる精神が導きだしたもの。自分自身の心としっかり向き合え。一点の汚れもないと言えるか?」
NHKさんは、いつまでこのような問いを若いママ達に突き付け続けるのだろう、そう思っていた矢先。
だいすけお兄さんの引退もとい卒業。
それは、「かぞえてんぐ」さんの卒業を意味する。
かぞえてんぐさんについては、もうここでいちいち説明しない。知らない人は、とりあえずググってほしい。
Eテレ「おかあさんといっしょ」の中でも、それがどんなに狂ったコーナーで、ママ達の脳裏に、毎週鼻の先から何かを出しながらレフトハンドで昇天するかぞえてんぐさんが、どれほど衝撃的に印象付けられたかが、おわかり頂けると思う。
これが変な意味に見えていた私は、私の心が汚れていたからなのかもしれない。
世の中の、たいていのことは、自分の中で既に答えが用意されていて、その答えに合ったエビデンスだけを敢えて無意識に採用したりするものだ。
先日、平田オリザ原作の映画「さようなら」を見た。
阪大のマッドサイエンティストにしてgoldheadさんいわく「三大石黒の一人」石黒教授監修、本物のアンドロイドを使った話題作である。
人間とそっくりなロボット、レオナ。レオナは機械である。しかし、ここまで外見が人間に近く、しかもコミュニケーションをとることができる「機械」を相手に、私はどこまでレオナを機械とわりきることが出来るだろうか、と思いながら映画を見ていた。
例えば、主人公の外国人女性ターニャが、恋人とセックスをするときにレオナに別の部屋へ行って欲しいと指示するシーンがある。これはもう、ターニャがレオナを単なる機械以上に感じてしまっているという表れであると思ったし、もし私が同じ立場でも、そうしただろう。
「何か元気になれる詩を読んで」ターニャが頼めば、様々な知識のストックの中から、谷川俊太郎や若山牧水、カールブッセの詩や短歌をレオナは優しく呟く。恋人が急に出て行ってしまったとき「彼、怒ったのかな」と聞くと「わかりません」という。レオナに何かを問えば、答えは返ってくる。
でもあるとき、ターニャとの会話の中で「私は自分の意思というものはありません。私が答えることは、すべてあなた(ターニャ)とのコミュニケーションのなかで蓄積されたものです」という。
それを聞いて、愕然とするターニャ。「ばかみたい。私、自分と喋っていただけじゃない」と。
答えはすでに用意されていたのだ、いつも、どんなときも、自分の心の中に。
それでも、人間は自分でも気付かなかった自分の考えに学んだり、励まされる事も多いにあるだろうとは思った。
そして、アンドロイドは、機械であり、決して心を持たない。持たないけれど、ラストのあのシーンに、どうしても意味を持たせたくなるのが人間という生き物であり、もしかしたら、本当に、ロボットが自分の意志で、心で、ああいう行動に出ることも、あるのかも知れないと思った。 あればいいな、と私は思った。
人は物から何か汲み出しているのではなく、自分の中から汲み出しているのだ。あるものに触発されて、自分の中で応じるものを自分で見出しているのだ。
ニーチェ/悦ばしき知識 より
あ、明日水曜やん、かぞえてんぐさんの出てくる日やで。朝はだいたい8時15分頃登場すんねんな。あれどうみてもチン