珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

少女雑誌りぼん、そのグロテスクで残酷な世界

 桐野作品が大好きだ。

 

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 うんこちんこまんこばっかり原文の発想がそもそも凄まじいが、その古事記の世界をこんなふうに桐野色に書き変えられるなんてすごい。

 

一番好きなのは、実際に起こった東電OL殺人事件をモチーフに書かれた、この作品「グロテスク」。

 

グロテスク

グロテスク

 

  もう、どれだけこの作品が好きかというと、好きすぎて、下手に感想文を書きたくないぐらい好き。

 

 だから、たまに他の誰かがこの本について感想を述べているのを読んだりすると、すごく嫉妬するのだ、私の方が、グロテスクを愛しているのに、先をこされた!ムキー、ぐやじい、じたばた!!と。

 だったら書けば良いのだが、もうどこからどう褒めていいかわからないぐらいの、傑作なのだもの、そう簡単にこの想いをアウトプットできない。

 そんなんだから、半端な感想文や、的外れな評を読むと、書き手に殺意すらわく。

よって、精神衛生の為にも、桐野作品について書かれたブログ等は読まないことにしている。それぐらい、私は、この小説そして桐野ワールドが大好きだ。

 

 大好き、なんだが。
「ハピネス」に関しては、全然期待していた物語とは違っていた。

 

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 多分これは、桐野先生ご自身が、一流作家になってしまっていて、(いやもうとっくの昔から一流でいらっしゃるのは重々承知しておりますが)普通の主婦としての感覚をもう失いつつあるからではないかな、と思った。
 
 具体的にどこがどう、とかじゃなく。ママ友同士の人間関係構築に対する考えそのものが、根本的に実際のそれとはズレているなと。ママ同士の繋がりが、あまりにもあっさりしているのである。
 
 あくまでも、私に限った話かもしれないが、もっと専業主婦ママ同士の繋がりは、良くも悪くも、濃い。
 
 だって、私達にはそれしか人間関係が無いのだから。
それしかないわけではないが、少なくともこのハピネスに出てくる母親達は、常に四人だけで行動している。まあこれはこれで、一般的なママ友関係に比べると極端に狭い輪であると言えるが。
 
 とにかくそんな狭くて濃くて、世間から閉ざされたママ同士の感情のもつれ合いは、桐野先生にはもう遠い昔のことであり、その生々しい感情はもう産まれないのだろう。
 
 それでも小説としては大変面白かったし、離婚をめぐる義実家とのやりとりでは泣かされるシーンも多かった。また、お互いの子供の知能や能力の違いを感じて焦る気持ちも、よくわかる。
 
さて。
 
 グロテスクの感想を書き始めたのだが、4000字ほど書いて、また全部消したりを繰り返している。
どうにも、思い入れが強すぎて、まとまらないのである。しかも感想ってったって、あなた、私がこれを読んだのって、結婚前、もう十数年以上も前なんですから。そんな昔の感想、覚えてないでしょって、普通はそうである。
 
 でも、成績優秀で、有名インフラ企業に見事入社したエリートであるにもかかわらず、“顔が美しくない”ばかりに、どんなに努力しても認められない苦悩。美しくない女から見た世界の歪み、その表現が、私の胸には、グサグサと突き刺さったまま、今も抜けていないのだった。
 
 私は、結婚相手を顔で選んだ。
 
 もちろん性格も合うし、一緒にいて楽しい。
でも、一番の決め手は彼の、その顔であった。
たまたま彼の実家が芦屋のお金持ちだったことは、本当にラッキーだったし、彼自身それなりに稼ぎの良いお仕事に就いてくれているのも大変有り難い。しかし、そんなことは全くもって二の次であった。とにかく、結婚相手に望む最重要事項は顔、だった。
 
 いや、イケメンだったとか、好みだとかそういう話ではない。
 
 もし彼が父親になった時、産まれてくる女の子は、絶対に可愛くなる。
 そう確信出来る顔だったのだ。
一切骨張っていないあどけない丸顔、色白の肌、蒙古襞のない大きな瞳、各パーツの配置バランス。完璧だ。女の子としては。
 
 一般的に女の子の顔、特に長女の顔は、父親に似ることが多い。
じゃあ息子が生まれたらどうすんだ、という話だが、私は超色黒の面長くっきり濃いパーツの男顔。体は痩せ形長身で、女としては残念なこの身体的特徴は、男の子に遺伝すればまあそこそこプラスにはなると思ったのだ。 
 
 
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 ここで唐突に少女雑誌りぼんの話をする。
81年うまれの私が、親に初めて漫画雑誌を買ってもらったのは「りぼん」で、その表紙はちびまる子ちゃんだった。

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 当時のりぼんは、ジャンプよりほんの少し早く黄金期に入っていたように思う。一条ゆかり先生がボスって感じで矢沢あい吉住渉池野恋水沢めぐみなんかが一番人気を競い、今や大御所のさくらももこはまだそこまでの地位はなかった。
 岡田あーみんと同枠の面白漫画家、という位置付けであったが、今二人がどれだけのレジェントになっているかを思うと当時のあーみん&ももこ合作企画なんかも感慨深い。ほかにも一人一人漫画家の名前を挙げたらきりがないほど、一冊のりぼんにこれだけの作家が集まっていたのか、という程に豪華な面子だった。
 
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 りぼんを読み始めた頃、「おおきくなったらすてきなおとこのこと、こいをするのだ、そしてさいごはちゅーするのだ」と思った。
 
 それが当然であり、お姉さんになれば、そうだな、小6ぐらいになれば、全員に、もれなくそんな機会が訪れると思っていた。
私の知る『お姉さんの世界』は、りぼんだけであり、りぼんに描かれたことが全てだったから。
 
 でも、女の子達は、だんだん気づいていく。自分の立ち位置というものに。
 
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 私の背は、いつだってどの男子よりも高く、また、同級生がどんどん女らしい丸みを帯びてゆくなか、私はガリガリに痩せていた。そしてとにかく色黒だった。りぼんに出てくる女の子の要素が、ひとつもなかったのだ。長々書いたが二文字で済む、つまり、ブス、だ。
 
 ブスのくせにそれに気付かず無邪気に可愛い女の子の振る舞いに憧れていた幼い私と、選ばれない女の子もいるのだ、自分はそっちの女の子だと気づいてしまった幼い私。
 
 どちらもかわいそうだけど、勘違いをしていた頃の、無邪気な自分の方を、一層今は哀れに思う。小学生の頃は、三つ編みをほどくと髪がフワフワになって、それがお姫様みたいだ、と自分では思っていたのだ、かわいそうな、真っ黒なかりんとうみたいな女の子。
 
 そんな私の顔をさらにブスにしていたのは、父親からの私に対する罵声とか存在を否定するような言葉や態度の数々だったと思う。もともとの表情に、内側からの卑屈さとか、自信のなさが加わり、だんだんと暗い顔だちになっていった。
 
 そして、具体的な疾患名は控えるが、かなり珍しい類いの皮膚疾患を、小学3、4年ごろ後天的に発症した。痣のようなものと想像してもらえればいい。少し前、海外のアパレルブランドモデルに、その病気の人が採用されて話題になった。紫外線の照射など、幾つかの治療法はあるものの、現在でもまだ、完治するまでの薬や医療機器は開発されていない。ファンデーションや、化粧でなんとか隠せるとか、そういうレベルのものではなかった。
 かなり珍しい病気なので、治療に関する需要が少なく、研究も進んでいないのではないかと思っている。(今までこの皮膚病を持った人と実生活で会ったことはないのだが、もし不用意に詳細な疾患名を書いて嫌な思いをする人がいたらいけないので、あえてそれは書かない。)
 
 「それ」は服で隠せない頬下半分から顎の広範囲に現れ、幼い同級生は、悪意無く「なんでそこだけそんなんなってるん」「変やね、キリンみたい」と言った。
子供は残酷な生き物だ。
 高学年になるとかなりその部分は大きくなり目立った。さすがに直接そのことについて話題にする友人もいなくなったが。
 
 外に出るとあからさまに私を見てくる人が増えた。人の視線が本気で怖くなった時期である。
 
 今も忘れられないが、電車に乗っているあいだじゅう、10数分、ずっと私のほうを、身体を捩ってまで、じっくりと観察してくるお婆さんがいた。
 
 珍しい生き物でも見るように、まじまじと、嫌な視線がずっと私に絡まりついて、それに囚われた私の身体はこわばり、動けなかった。そんな目に気づかない平気なふりをするのに、精一杯だった。耐えているのを悟られたくなかった。
 
 今なら思う。その場で泣けば良かったのに、と。
 
 泣き叫びながら、これがそんなに珍しいか、そんなに見たいか、と、ばばあを責め立てれば良かった。
 
 でも少女だった私は辛くて、家に帰って一人泣くことしかできなかった。母親に心配をかけないように注意しながら。
 
 可愛い女の子、フワフワして色白で丸くて、背が小さくてお人形みたいな子は、りぼんの主人公になれる。女の子の外見は、男の子のそれより、圧倒的な力を持つ。良い方向にも、また悪い方にも。桐野夏生のいう、ヒエラルキーをも飛び越える力。
 
 りぼんの主人公じゃない側に生まれた私は、それだけでも心を歪ませるに十分な素地が整っていた。そこへ、あの痣が心にもべたっと張り付いて、誰にも自分を見られたくなくて、本当に下を向いてばかりの数年間だった。比喩ではなく、物理的に、下を向けばなんとか少しは隠す事ができたから。もしそんなときでも親が私を否定するようなことばかり言わなかったら、もう少し上を向いて生きられたのだろうか。それは、わからない。
 
 不思議なのは、高校在学中に、その皮膚疾患の部分が、薄く小さくなったことである。とはいえ、今もそれが完全に消えたわけではないし、下ばかり向いてしまう癖も抜けないし、対面した人の視線が一瞬でも顎にいくともう逃げ出したくなるし、なるべく1年中タートルネックを着る生活はずっと何十年も変わらない。
 
 だからこそ思ってしまう、こういう考え方は健全ではないと知りながらも、女は外見なのだ、と。ルッキズムの呪いに、雁字絡めになっている。
 
 私は、母親としては本当に未熟で、子ども達を東大の理Ⅲへ入学させられるだけの度量もないし根性も無い。本当に、ダメな母だと自覚してそれでも毎日精一杯の愛情を娘に与えながら、もがくように必死に子育てをしている。

 

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 こんな不器用な母親ではあるが、ただ、ひとつ私が娘に与えられた財産。
 それは陶器のような白いなめらかな肌、そして誰もが可愛い、可愛いと口々に言ってくれるような顔立ちに生んだ事、つまり、私の要素ゼロの外見に産み落としたことだけは、彼女にとってこれから大きな生きる糧になるだろうと思っているのだ。とても歪んだ考えだとは思う。
 しかし、私の母としての仕事はもう、それで終わったようなものだと、思う事にしている。そうすれば、母親の負うべき責任と重圧を思う時、いくらか心は楽になるのであった。
 うちの子は、きっと「りぼん」も「なかよし」も、ずっと主人公の気持ちで読む事ができるだろう。お人形のように愛らしい我が子のきらきらした未来を思うと、自分のことにように嬉しく思う。
 私は、なんてグロテスクな、母親なのだろう。