珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

ハモニカ兎

 小川洋子の小説を読んだ。この世には面白い小説は数多あるし、次の展開が読めないとか、思わぬどんでん返しがあるとか、泣けるとか笑えるとか私もそういう刺激的な物語に胸が高鳴り、心が震えた経験は何度もある。
 さながら更級日記の少女がごとく、嬉しくいみじくて、夜昼これを見るよりうち始め、ドキドキしながら読書する楽しみ。早く先を知りたいのに、読み終わるのが勿体ないようなもどかしさ。

 実は小川洋子の小説は、私にとってはそういう「面白い」文章ではなかった。
 ただ、今まで読んだ文章の中で、一番綺麗だと思った。

 ずっとこの人の文字列の世界に浸っていたい、織りなされる言葉を追っていたい、ひたすらに心地良い文章を夢中で読んだ。
 サラサラと澄んだ水で、淀んだ脳みそを洗われているような感覚。こんな読書体験は初めてだった。

 例えば「冷めない紅茶」という作品。これは、中学生の少年が図書室の司書である年上の女性に恋心を抱き、やがてふたりは結婚し、その二人が当時を思い出しながら聞き手の主人公になれそめを語るシーン。

“「(中略)だから僕は彼女に近寄って、肩に手を触れたんだ。彼女を掌のなかで確かめたかったんだ」
「彼が触れてくれたとき、ことん、って鍵がはずれるような感じがしたわ。」
彼女は小さな声で言った。
あらかじめ用意され、磨き上げられたような会話だった。手作りのデザートがあり、紅茶の香りがあり、そして恋の始まりを記憶する鮮明な言葉がある、無傷な午後だった。”

 作中の言葉で表すと、儚い水彩画のような淡い色合いの恋。なんて清らかな表現だろう。自然と脳内の情景も、そのような映像が浮かぶ仕組みになっている、巧みな表現だなあと感嘆してしまうのだった。
 
 「完璧な紅茶」と「ダイヴィング・プール」についての感想はツイッターに書いたのでここでは省くが、完璧な~は、死と生の境目についての表現が白眉だった。ダイヴィング~は、私が苦手な話(子供が虐待される)なのにそれでも目が離せない、読みたくなってしまう恐ろしい作品だった。

 「帯同馬」は、読みながら神戸のポートライナーを思い浮かべた。同じところを行ったり来たりする生活をこんな風に“二つの行き止まりに守られた軌跡"というの、ため息が出た、ほんまに。美しすぎて。

 

 そして「ハモニカ兎」。
この話を喜劇と捉えるか、悲劇か。ほんまに人それぞれ違う感想を持つと思う、ここまで解釈の幅を感じさせる物語がまず凄いよ、凄すぎる。
 それで、私はこれとんでもないホラーだと感じたわけです、ラストの二頁ね、こわすぎやろ。
 あと、小説って、設定をなにもかも説明しなくて良いんよな、って小川洋子を読んでいて思う。
 この物語は「オリンピックまであと●日』っていう始まり方やから、読み始めは先の東京オリンピックのことかな、なんて思ってたけど読み進めるとどうも違う気がしてくる。その確証もない。どこの国の何時代の話なのか。
 書かれているのはオリンピック種目というが、なんだこの謎のスポーツは。私は、その競技の解説を読むうちに、全体の雰囲気がすこぶる不気味に思えてしまった。ただ、可笑しくもある。そもそも、ハモニカ兎ってなによ、って話なのよ。もはや地球の話ですらないのかもしれないし、優れた作品にはそんな解説は不要なのだ。優れた作品にだけ許されるふるまいなのかもしれない。これぞ、ゼロから有を産む才能か、と感嘆した。

 

 前まえからそうだっったとはいえ、ここ最近のツイッターは、目に入れると腐りそうなものが多く流れてくるようになった。前もおかしな人はいたけれど、体感で目にする頻度が変わった気がする。
 なんやろ、やっぱイーロンのせいなのかな、違う気もする。今までは小川洋子みたいな才能のある人だけに許されていた、物を書いて他人から反応を貰える、という特別な行いを、だれでも出来てしまうようになったことがあかんのやと思う。
 前にもツイートしたけど、SNSの一番の罪は「こんな(しょうもない)ことで怒るのか」という人を可視化したこと。それによって「こんな(程度の)(くだらない)ことで怒れば仲間達から評価される、不快さや怒りを表明することで報酬を得られる、と歪んだ学習をした人が大勢いる。
 だったらそれを見に行かなければいいのに見てしまう自分もあほだ。脳みそがどんどん鈍く濁っていく。そういう時、先ほど書いたように、小川洋子の文章を読むと、サラサラの水で私の饐えて酸敗した脳が生き返るきがする。