公園の 小さき花を 手にとって
「可愛い」と言う
きみがかわいい
ニコイチで 包装された飴みたいに
甘く交じって 溶けて消えたい
キスしてもいいですか?
なんて聞かないで
黙って奪って 欲しかったあの日
公園の 小さき花を 手にとって
「可愛い」と言う
きみがかわいい
ニコイチで 包装された飴みたいに
甘く交じって 溶けて消えたい
キスしてもいいですか?
なんて聞かないで
黙って奪って 欲しかったあの日
育児、それはゴールの見えぬ戦いのような日々。
その戦いのなかで、どんだけズタボロになるか、個人差はかなりある。子どもの性格、親の性格。私個人の話をすれば、特に乳幼児の頃は、心と身体が我が子によってボッロボロにされた。子どもを産み落としたその日から、私は大切にされる妊婦という姫状態から、一気に母親という重要かつ地味、それでいてしんどい役割を負う事となった。
ブチブチッと切開された性器の傷は一ヶ月経っても完治しなかった。結果的に3年続いた夜中授乳による睡眠不足、乳腺炎の激痛と高熱、抜け毛。色々あるが、まず乳房。
「これ、もう戻らへんの?」
と、いまも夫には聞かれる。
うん、戻らないだろうね。うちの子が吸いやすいように、カスタマイズされた乳。
「ちょっと貸し出したら、えらいことなって返ってきたで。これ僕のんやのに……」
とか言われても。知らんがな、あんたの子やで。あとな、泣きたいのはこっちやでほんまに。
さて、今日は、そんな育児に翻弄されるママが、決して手にしてはいけない禁断の書をご紹介していきたい。まずはこちら。
金原ひとみの、ナチュラルにセレブママなのだなという普段の子育てぶりも読み取れて、面白い。それはもう嫌みとかでは本当になくて、この人はそういう環境で子育てしているのだろうし、有名作家なのだから当然のことだ。
私がグサグサきた文章は以下。
201ページ
私は今日も一弥と離れられない。地獄という特権を与えられて喜べといわれている。涙も出ない。
205 自由を手に入れる自由を、私は出産したその瞬間に失ってしまったのかもしれない。
妊娠出産、それはおめでたいこと。
でも、喜べ喜べと言われるその特権は、実際“地獄”そのものなのである。
世の中の母親がその地獄を乗り越えるための、唯一の手段は「愛すること」のみである。
あとは、この小説で私が感情移入せずにはいられなかったのが、以下に登場する弥生ちゃんという女の子とその母親の描写。
弥生は私と公園に行くといつも他の子どもを見ている。羨ましそうに見ている。いつも何をするにも私の判断を仰ごうと私の顔を盗み見て、自分から友達を作ろうとはしない。いつだったか、他の子どもたちが楽しそうに走り回るのを弥生がじっと立ち尽くして見つめ続けている後ろ姿を見た時、発狂しそうになった。あまりに痛々しくて、あまりに苛立たしくて、あまりに悲しくて、そういう弥生をあまりに受け入れがたくて、「ママとあそぼう」という一言すら口に出来ず強烈な憤慨に混乱し目をそらした。人見知りしない子に、無邪気な子に、活発な子になってもらいたいと思って赤ん坊の頃から色々なところに連れ回し、色々な人に会わせてきた。(中略)なぜ弥生だけが、「行動する」前に「考える」子になってしまったのか。(中略)弥生は私が幼かった頃にそっくりだ。(中略)自分がそうだったからこそよけいに、弥生の弱さが堪え難いのだろう。
わ、か、るー!!
そう、まさに、私の娘はこの弥生ちゃんにそっくりの、内気でおとなしい気の弱い女子だ。
よって、大声をだして公共施設で暴れ走り回る、他人様に迷惑をかけるなどの苦労を、私はしたことがない。
しかし、その反面、我が子の内気すぎる精神面に現在進行形で大変不安を抱えているのも事実であり、何より辛いのは、その気弱なおとなしい性格に、私自身を見ることなのだ。
はっきりいってうちの娘は私に外見は全然似ていない。どちらかといえば美少女な方だと思っている。親の欲目もある。けれど、子どもというのは、月齢の小さい頃は無条件に「可愛い」と言われるものだが、6歳もすぎると、残酷にもその回数は本来の容姿に左右されてくる。
そんななか、まちなかで見知らぬ人からいまだにかなりの頻度で「お人形みたいなぱっちりおめめだねえ」と褒められる我が子は、客観的に見てもきっと悪くない容姿なのだと思っている。
このように、外見こそ違う娘だが、内面は、特に私自身がコンプレックスに感じている気の弱いところなどがそっくりで、それを日常生活のふとした時に感じたりすると、我が子に過剰な自己投影をすることが危険だとわかりつつも、いたたまれない悲しみを感じることがあるのだ。
そう、本文を借りると発狂しそうなほどに、母として辛い。
そして、多くの親には読むのが苦しくなるであろう描写が、冒頭に書き写したもう一人の赤ちゃん一弥くんのエピソードである。
軽くネタバレすると、一弥くんは、まだ小さな小さな0歳児にして、母親から徐々に酷い虐待を受けるようになっていく。
ここらへんの、ごく普通の、子どもを愛していたはずの母親が、0歳児に翻弄され、疲弊し、どんどん自我が崩壊、あるときぶわあっと赤ちゃんにその凶行が向かうという心理描写は、一度でも赤ん坊を育て、苦しんだ事のある者なら、恐ろしくて仕方ないのではないだろうか。
確かに、自分は虐待しなかった。じゃあ、そのギリギリを踏ん張れた私たちの中にあったものって、一体?そう、自分を見つめ直し、ほんとうに紙一重なのかもな、と思ってしまった私は、自分自身にヒヤリとしたものだった。
娘が特に小さい頃は、まるで、世界一可愛いヤクザに、自分の生活と心と体をむちゃくちゃにされている、そんな日々だった。
つづいて、こちら。大好き湊かなえ先生。来月サイン会いくねん〜。
栄養に気を気を配り、休養をしっかり取る。適度に散歩をし、クラシック音楽を聴いたり、詩を朗読したりする。リルケの詩を暗唱できるよううになるごとに、情緒豊かな感性を送り込んでいるような気分になり、お腹の中の生き物を大切に育てるという行為は、絵を描いたり、花を育てたりすることに似ていると思いました。
リルケの詩を愛し、美しい庭にはバラが咲く。
妻が、「お前の魂に私の魂が触れないように 私はそれをどう支えあう?」
とつぶやけば、庭でカンバスに向かい絵を描く夫は
「ああ 私はそれを暗闇の なにか失われたものの側にしまって置きたい お前の深い心がゆらいでも ゆるがない 或る見知らぬ 静かな場所に」
と、あとに続く。絵と詩とギターを愛する、嘘みたいに麗しい両親の思い出。
こんな絵画のような家庭。だけど潔癖で完璧すぎる母親の子育ては、相当歪んでいた……。
そして、途中出てくる以下の文章、これにがーんとやられる母親、多いんじゃないだろうか。いや、違うな。母親だけじゃなくて、全人類、勘違いしてるんだよ、母性ってやつを。
母性、とは何なのだろう。隣の席の国語教師に辞書を借りて引いてみる。女性が、自分の生んだ子を守り育てようとする、母親としての本能的性質。食事もろくに与えず、子どもから金を奪ってパチンコに通う女にも、この性質が備わっているのだろうか。世間一般には、女、メスには、母性が備わっているのが当然のような扱いをされているが、本当にそうなのだろうか。そうではなく、母性など本来は存在せず、女を家庭に縛り付けるために、男が勝手に作り出し、神聖化させたまやかしの性質を表す言葉にすぎないのではないか。そのため、社会の中で生きて行くにあたり、体裁を取り繕おうとする人間は母性を意識して身につけようとし、取り繕おうとしない人間はそんな言葉の存在すら無視をする。母性は人間の性質として、生まれつき備わっているものではなく、学習によりあとから形成されていくものなのかもしれない。なのに、大多数の人たちが、最初から備わっているものと勘違いしているため、母性が無いと他者から指摘された母親は、学習能力ではなく人格を否定されたような錯覚に陥り、自分はそんな不完全な人間ではなく、間違いなく母性を持ち合わせているのだと証明するために必死になり、言葉で繕おうとする。
ストーリーも最高に面白くて、そして、最後は一応ハッピー?エンドなのだけれど、ものすごい暗い気持ちになる。主人公は、救われたのだろうか、いやこれからもずっと、親子の模索は続くのだろうな、そんな感じの終わり方。
母性って、結局なんよ?
余談ですが湊かなえさんって、あんなにスーパーベストセラー作家なのに淡路島に住んで、ママ友と子連れUSJ行きながらアトラクション待ち時間に文章を書いちゃうようなエピソードのある方で、なんか同じ兵庫県民ママとしても勝手に、ほんま勝手に、親近感覚えてしまっています。
でもね、色々あるなかで、これらと比べ物にならないほど、育児ノイローゼの業火へ、ガソリンをジャブジャブ注ぐような、危険な書物が世の中にはあるのですよ。
そんなに恐ろしい悪魔の本が、普通に書店で売られているのですよ……。皆様も見つけたら気を付けた方が良いです‼
それがこちら。
出ましたドン、ひよこクラブ。
もう、私、子供が0~2歳ごろまでこれ講読していたけれど、ほんと、何度書いている内容に呪いをかけられたかわからない、辛い思い出しかない本なのだ。
で、ある日、付録の別冊含めば全部で20冊以上あったのかな、それらを、一気に捨てたのだった。
どかーんと。すごくスッキリした。
もう手元に一冊もないし、2017年版は読んだ事も無いので最新情報はわからないが、内容としては、離乳食のおすすめレシピ(いちいち人参なんか型抜きしてさ、そんな余裕ないし)、予防注射情報、産後ママのファッションやおすすめおむつ収納など。
そして、0ヶ月〜13ヶ月ぐらいまでの、各月齢ごとのモデル赤ちゃんの生活例が24時間スケジュールで毎号かなりのページ数をさいて細かく載せられている。これに、思い出しても涙がでそうなほど、私は追いつめられた。
だって、うちの子、何をするのも誰よりも遅かったのだもの。
例えば、はじめてのあんよ。これ、ひよこクラブではだいたい8ヶ月から1歳ぐらいの間に、みんな歩き始めると書いてあって(まあこれはひよこクラブだけが言ってるわけではなくて母子手帳にも書いてあるあくまで平均の話なんですが)それがうちの子は、1歳半まで全く歩かず。1歳を過ぎた頃、保健所から毎月呼び出され、子どもの発達チェックを受けた。
あんよの前には、おすわりも平均より数ヶ月も遅れており、もっというと、言葉も遅かった。本当に何もかもがゆっくりペースで。
で、この本は、そういうちょっと遅れている子の例が載っていないのだ。当然である、一般的ではないのだから。
しかし、そのことに私は打ちのめされた。毎月、毎月。
また、ここに書かれているような生活が出来なかった、と。母乳もなかなかやめられず(結果幼稚園入園してもしばらくおっぱい吸ってるようなおっぱい星人になったわけですが、そのおかげか笑えるほど健康な我が子、そのせいで私の乳首は以下略)でもおっぱいを早々と切り上げる親子の話は掲載されているし。思い返せば、わざわざ私のほうも、不安になるような記事ばかり選んで読んでいたとは思う。
どうしよう、私たち親子、どんどん取り残される……。毎日が、そんな焦りと後悔の日々。
そして出る結論は、いつも「ごめんね、私って、なんてダメなママだろうね。」
あなたがおすわりもあんよも遅くて、いつも泣いてばかりなのは、全部ママが、育て方、産み方が悪いんだよね、ごめんね。
こんなふうに私はいつも自分ばかりを責めていた。
これ、自分が小さいときに「お前が悪いお前があほやからや」と父親に毎日言われたことも原因として大きいかも知れない。
でも、私、子どもにどんだけ大声で泣きわめかれて毎晩寝られなくて、トイレさえもまともに行く時間もなく、乳房は何度も激痛を伴う乳腺炎になり高熱が出て、それでも寝ることもできず、日中は牛乳こぼされたりむちゃくちゃやられても、一切、怒りや苛立が子どもに向いた事が無かったのだ。
これは育児日記。「ぼ」マークは母乳をあげた印。
今でもよくママ友に「ミキちゃん、ほんま優しいよなあ」っていわれるけれど、まだ子どもが小さいうちは、たいていの責任が母親にあると思っていて。
だから全然子どもには怒りをぶつけた事は無かった。もちろん夫にも。
そして、削られる睡眠時間、子どもの泣き声(ほんとよく泣く子だった。今もか)、体調不良、それらに追いつめられた私の極限のストレスは、全部自分へ向いた。
どうなったかというと、自分で自分の毛を抜き始めた。主に眉毛、あと頭髪も。授乳中、ずっと無心で、自分の毛を抜いている私の姿は、とても怖かっただろう。なので一時期は頭頂部薄くて眉の無い顔面をしていました。その他、変わった方法で自分の体をいためつけた時期があった。
それぐらい、私が自分を追い込んでしまったのは、その理由は一つで、それは、我が子が、可愛くて愛おしすぎたから。
過去形ではない、愛おしすぎるから、だ。
私、まだ娘が6歳なのに、好きすぎて大切で、逆に子育てがしんどいのだ。もういっぱいいっぱいなのだ。
あと何年、私はこの愛に苦しまないといけないんだろう。
こんなに愛してしまうなんて、私は母親に向いていないと思う。
子どもなんてほんまはきっと勝手に育つのだ。もっと片手間に効率よく育成できるはずなんだ。
なのに、私は愛おしすぎて自分のすべてを捧げてしまい投げ出してしまう。トイレだって行きたきゃいけばよかったのに。幼い娘が泣くと、可哀想で、放っておけなくて、ずっと抱っこしていた。だって可愛いんだもの。
いまも毎日私は娘を撫で回し、キスをし、全身のにおいをかぎ、「ああ、可愛いよ、可愛いフンガフンガ」と恍惚の表情を浮かべたあと、好きよ、と言う。最低20回は好きだと言ってる。そしてこれも毎日の事なのだが
「ねえ、○○ちゃんは、どうしてそんなに可愛いの?誰の子どもなの?」
と聞く。ええ私です、うん、知ってるよアホやろ。でも、毎日確認したい。するとあきれながら娘は
「またその話か、ママが産んだんやろ、忘れたん?」
と、完全に残念な人間を見る目つきで私に言うのだ。そして私は
「あーそっかー、こんな天使を産んだのってママなんやねー、ママってすごおい!あははっ」と、親ばかというか完全にただのバカ発言をさんざっぱらやっている。狂気の沙汰である。毎日、毎日、飽きもせず。
ただもう、私は子育てから逃げたい。この大切な我が子から、逃げたくなるのだ。私の生きる場所がここだけって思うと、苦しくて。
自分の命よりずっと大切な存在が出来ることって、凄く幸せだけど、ある意味めちゃめちゃ苦しくてこわいことなのだ。
私はもう、この子がいるかぎり、どんな問題からも、それは小さな子ども同士の人間関係の悩みから、年金問題、果ては地球環境への懸念まで、広範囲に渡る様々な目を背けたくなる事柄から、逃げられないのだ。
子供を持つということ、自分よりずっと大切な存在ができるということは、いちいち子どもに関わる事に傷ついて心を乱されながら、自分も泣きたい気持ちでいっぱいになりながら、生きること何だと思う。子供が幸せそうにしていないと、そのときの親の苦しみって強烈なもので。
笑顔も、悲しみも、全部倍以上のパワーでこちらに跳ね返ってくる。
この子を守るのは私の責任、それが私にできるのか。
もう少し、肩の力を抜いて、子どもを愛せたら良いのに。
でも、ですよ。私、母性って何?っていう湊かなえ先生の問い、あれには、わたしなりの、答えがあるのだ。
というのも、日々のちょっとした出来事から、娘の行動の細部に、他者への優しさと愛情を垣間見ることがあり、それは私から彼女に伝えたものであると、確信し、それこそを母性というのではないか?と思うのである。
例えば、娘には毎晩寝る前はおもちゃを全て片付けなさい、と指示している。しかし、娘は
「お人形達は箱に入れると窮屈だからここに寝かせてあげて良いでしょう」
と、机やらソファの上にお布団(タオル)を敷いて、ひとつひとつ、もとい、一人一人をきちんと寝かし付けてから自分も寝るのだ。
正直、こうされると部屋が片付かないし邪魔なのだが、全ての人形に布団をかけて寝かせられているそれらを、私は箱にしまう気にはなれないのである。
そして、そんな娘の優しさこそが、私自身の愛情が伝染した母性であると、考える。
なーんて、自意識過剰だろうか。
私なんかが育てるより、よその賢いお母さんに育てられたほうが、よっぽど利口な子になるかもしれないな、とは、常に思っていることではある。
私にはあのママみたいに、この子を東大理Ⅲに入学させてやる根性と知恵は無い。
ただ、人間の子供がそこに寝ているだけなのに、めちゃくちゃ愛しくて可愛くて最高に幸せな気持ちにさせてくれるなんてことが、世の中にはあるのだ。我が子の寝顔がもたらす、この不思議な説明のつかない感覚、それは母性なのかな、と思った。
最後に、いつもグズグズ泣いてばかりの乳幼児だった我が子に対してノイローゼ気味だった私を、更なる地獄の底まで突き落とした、実際言われた恐ろしい呪文をここに記しておきます。もちろん同じ文脈の言葉がひよこクラブにも書かれていた。それは
「ママが笑顔なら、赤ちゃんも笑顔になるはずだから」
私にはこの言葉が、「おまえが辛気くせえツラしてっからガキがギャンギャン泣きわめくんだろが、もっと楽しそうにしろや」に脳内で変換されて、「笑顔のないママでごめんな……」といつも思っていた。私の顔が暗いのは地顔なんですよっと。
ママ、こんな暗い顔やけど、あなたといると幸せやから、辛いことあってもいっしょうけんめい頑張るね。だから、明日も、嫌やろうけどキスさせてね、おやすみ。
※愛のままにわがままに、夜中の変なウルトラソウルテンションの勢いで日記を書いてしまったので、重複表現や表記のブレだらけ。
「貴様がそう見えるなら、そうなのだろうな。しかしその答えは、お前の内なる精神が導きだしたもの。自分自身の心としっかり向き合え。一点の汚れもないと言えるか?」
NHKさんは、いつまでこのような問いを若いママ達に突き付け続けるのだろう、そう思っていた矢先。
だいすけお兄さんの引退もとい卒業。
それは、「かぞえてんぐ」さんの卒業を意味する。
かぞえてんぐさんについては、もうここでいちいち説明しない。知らない人は、とりあえずググってほしい。
Eテレ「おかあさんといっしょ」の中でも、それがどんなに狂ったコーナーで、ママ達の脳裏に、毎週鼻の先から何かを出しながらレフトハンドで昇天するかぞえてんぐさんが、どれほど衝撃的に印象付けられたかが、おわかり頂けると思う。
これが変な意味に見えていた私は、私の心が汚れていたからなのかもしれない。
世の中の、たいていのことは、自分の中で既に答えが用意されていて、その答えに合ったエビデンスだけを敢えて無意識に採用したりするものだ。
先日、平田オリザ原作の映画「さようなら」を見た。
阪大のマッドサイエンティストにしてgoldheadさんいわく「三大石黒の一人」石黒教授監修、本物のアンドロイドを使った話題作である。
人間とそっくりなロボット、レオナ。レオナは機械である。しかし、ここまで外見が人間に近く、しかもコミュニケーションをとることができる「機械」を相手に、私はどこまでレオナを機械とわりきることが出来るだろうか、と思いながら映画を見ていた。
例えば、主人公の外国人女性ターニャが、恋人とセックスをするときにレオナに別の部屋へ行って欲しいと指示するシーンがある。これはもう、ターニャがレオナを単なる機械以上に感じてしまっているという表れであると思ったし、もし私が同じ立場でも、そうしただろう。
「何か元気になれる詩を読んで」ターニャが頼めば、様々な知識のストックの中から、谷川俊太郎や若山牧水、カールブッセの詩や短歌をレオナは優しく呟く。恋人が急に出て行ってしまったとき「彼、怒ったのかな」と聞くと「わかりません」という。レオナに何かを問えば、答えは返ってくる。
でもあるとき、ターニャとの会話の中で「私は自分の意思というものはありません。私が答えることは、すべてあなた(ターニャ)とのコミュニケーションのなかで蓄積されたものです」という。
それを聞いて、愕然とするターニャ。「ばかみたい。私、自分と喋っていただけじゃない」と。
答えはすでに用意されていたのだ、いつも、どんなときも、自分の心の中に。
それでも、人間は自分でも気付かなかった自分の考えに学んだり、励まされる事も多いにあるだろうとは思った。
そして、アンドロイドは、機械であり、決して心を持たない。持たないけれど、ラストのあのシーンに、どうしても意味を持たせたくなるのが人間という生き物であり、もしかしたら、本当に、ロボットが自分の意志で、心で、ああいう行動に出ることも、あるのかも知れないと思った。 あればいいな、と私は思った。
人は物から何か汲み出しているのではなく、自分の中から汲み出しているのだ。あるものに触発されて、自分の中で応じるものを自分で見出しているのだ。
ニーチェ/悦ばしき知識 より
あ、明日水曜やん、かぞえてんぐさんの出てくる日やで。朝はだいたい8時15分頃登場すんねんな。あれどうみてもチン
私は、阪急電車でいうと三駅先のスーパーまでわざわざ電動自転車を走らせ食材を買いにいく。
理由は、身の丈に合わない高級住宅街に住んだものだから、徒歩圏内にある小売店に陳列される商品の価格設定が、軒並み高すぎるからである。
三駅先の八百屋さんは、ボロボロの店構えに似つかわしくない、大きくて立派なワイドテレビを店内に壁掛けしており、いつもご主人がそれを見ながら仕事をしている。
一昨日ピーマンを買いにいくと、八百屋のテレビ画面いっぱいに狩野英孝が大写しになり、“野性の勘が”とか、“大人のお付き合いです”、“プライバシーが”やら“大人のおつきあいが”、とか言ってた。大人のおつきあい、という言葉の連呼に、なんだか恥ずかしくなってそそくさと店を出た。
ほったて小屋みたいな店と、最新のテレビと、そこに映し出される狩野英孝と、彼がそこでした発言の数々と、誰が買うのかわからない真っ黒になったバナナの盛られた篭と、全てが噛み合っていない。
異空間だと思った。
少し前まで、妹がうちに泊まりに来ていた。
10歳年下の妹は、私の自慢の妹である。
学生時代は、モデルのアルバイトもしており、社会人になってからもボランティアでショーに出演したりカットモデルなどしていた。
誰が見ても、美人で、スタイルの良い妹は、昔から性格も溌剌としており、小学生の頃は学級委員、中学に入れば生徒会長という、友達が多い子の、まさに王道人生を歩んでいた。
スポーツもよく出来て、長い手足を生かしハイジャンプの選手として小学生の頃から全国大会へ出場もしている。
また私とは違い、頭も良かった妹は、父親の希望通り、父親の母校であり県内では最も歴史のある公立高校に進学した。
ちなみにその高校の先輩は、南方熊楠や竹中平蔵である。て、竹中平蔵はあんまりプラスの情報ではないし黙っといた方が良かったか。
その後、推薦で関西の有名私大へ合格。
就職も鮮やかに決めた。
彼女は、メガバンクの総合職の内定を手にしたのだった。その年、三百人近い新入行員の中で女子で総合職に就いたのはたった7人であった。
銀行の、総合職。新入行員として配属されたのは、融資課、あの半沢直樹も所属していた融資課であった。
同じくバンカーだった父親は、性格が破綻していたので、融資課なんて花形には配属されず、池井戸作品の言葉を借りて言うと、変人の集まり臨店班(検査部)というところで仕事をしていた。※もちろん臨店班全員が変人とか花咲舞みたいな正義の味方ばかりだとか言うつもりはないですよ。
話を妹に戻す。
とにかく、私の妹は、美人で明るく頭も性格もよくて、全てが、私とは、真逆、だったのだ。
そして私はそんな妹に嫉妬と憎悪の炎を燃やし……たわけではなかった。
むしろ、彼女が生まれた瞬間から、いや母のお腹にいた頃から、ずっと、可愛くてかわいくて仕方なかったのだった。
だって10歳も離れているんだ。
それは「妹以上、自分の産んだ子供未満」そんな感じだった。
妹は、私の言うことは何でも信じたし、何でも聞いた。親とは喧嘩することがあっても、私が宥めると、それにはなぜか従うのであった。
とにかく私の言う事は素直に聞く子だったので、彼女が小学生の頃は、私は実にくだらない様々な嘘をついて小さなあの子を困らせていた。
様々な嘘のうち、今でも妹から「お姉ちゃんのあれは酷かった」と言われるのは、実は私達姉妹には、一番上に生き別れた兄がいるんだよ、という嘘だ。アルバムにたまたま写っていた赤の他人の男の子を、兄に見立てて話をすすめた。親には言うな、と釘をさした。
言ってるそばから、私はそんな嘘を忘れていたのだが、幼い妹は、ずいぶん長い間その嘘を信じ悩んでいたそうである。
あとは、3歳ぐらいの妹を連れて散歩をしていたとき、「お姉ちゃんは道に迷ってしまった、もう家には帰れないよ」などと言って本気で泣かしたこともあった。
いじめていたわけではない。全てが、愛しかったのだ。私みたいなもんを全面的に頼り、信頼する小さな妹が。
だけど小さな妹は、いつのまにか身長170センチを超え、しかも胸は私がマイナスAカップぐらいしかない逆にえぐれてんちゃうか言うぐらいの貧乳なのに対して、アルファベットで6個分ぐらい先のカップに成長していた。
これに関しては、私の以下の持論がある。
「とにかく何でも忘れっぽいお姉ちゃんが、お母さんの腹のなかにおっぱいを2つ忘れたまま産まれてもうて、それをアンタが拾って装着して出てきたんや、せやからそれ半分ぐらい私のんやから返せや」
というものである。 尚この持論は無視され続けている。
そんな、何もかも完璧な妹。そして私を慕い、絶対的な信用を置いてくれていた妹。
そんな妹に、私の言葉がもう届かなくなったのかな、と少し寂しくもあり、成長を感じたのは、妹が京都大学の彼氏と付き合い始めた頃だった。
それまで、何かにつけて私に色んなことを聞いてくれた妹。何の話かは忘れたが、彼女に私が意見を述べたことがあった。そのとき、妹は「でもさ、○○くんは、それは違うって言うてたよ」と言ったのだった。
ショックだった。初めて言い返されたというか、私より信頼したい頼りたい人が現れたんだ、と思った。
当然である、京大生の頭脳明晰な彼氏と、かたや嘘つきのあほな姉、どちらを信じてついていくかは、言うまでもない。
ただ、もうあの子の一番の存在じゃなくなってんな、と実感した瞬間だったし、寂しいけれど、そんな彼とあの子が出会えたのが嬉しくもあった。
私とは違いリア充な妹なのでもちろん小学生の頃から彼氏はいたけれど、あの京大の男の子は、今までの、どの彼氏とも違ったのだった。
お互いの両親に、挨拶も済ませ、正式なプロポーズも受けた妹は、幸せに向かって新しい一歩を踏み出すはずだった。
いつしか、妹は、職場の銀行の人間関係で悩むようになっていた。目立つ容姿の女性は、それだけで、同性の中にいると、その容姿が“無言の攻撃”になることがある、と水島広子先生の本で読んだ気がする。
美人は、何の気なしに男性からチヤホヤされる。それを目の当たりにし続ける同性の中には、それが“攻撃”に見える場合もあるという。
それが原因かはわからない。とにかく妹は、職場のある人から冷たくされるようになった。仕事でミスをした。
こんなときに、結婚したら、結婚に逃げていることになってしまう、と妹は思ったのだと思う。そのあたりはわからない。
知らないうちに、婚約は解消されていた。
そして、冬休みに会ったとき、妹は心療内科から、ある病名を告げられ、会社に行けなくなっていた。
美人でキラキラして明るかった妹は、会話こそするものの、以前のあの子とはすっかり変わってしまっていた。
それを一番感じたのは、あの子に誕生日プレゼントとして、ファンデーションとアイシャドウ、シャネルのヘアミスト、いずれも20代の女の子の間では話題の商品を、あげた時だった。
「ありがとう。」力なく笑ってそう言った妹だったが、そのファンデーションとアイシャドウ、ヘアミストを、私が実家に帰っている間の5日間、一切封を開けないままだったのである。
以前の妹なら、美意識も高く、自分磨きやメイクも大好きだった。というか、若い女の子なら普通はこんなに新しい化粧品、しかもシャネルを貰ったら、喜んで使うはずである。
でも、完全に、なんというか覇気の無くなった妹は、メイクもヘアケアもオシャレも、興味を無くした様子だった。
このまま、この子、死ぬんちゃうか。
そう思ってしまうほどの、変わり様だった。
それで心配して、私は、阪急沿線の高級住宅街にある我が家へ、あの子を呼んだのだった。このマンションは、大開口の大きな窓が自慢である。
表面上元気そうな、妹とは、なかなか核心に迫る話が出来なかった。録画していた『ヤクザと憲法』と戸塚ヨットスクールのドキュメンタリー『平成ジレンマ』を見たりした。
結婚さえすれば、幸せになれるから。
とにかく、彼がまだ好きだと言ってくれているんだから、何も考えずに結婚してしまえよ、それで絶対確実にあんたは幸せになれるから!!
そう、力強く言えれば良かったのに。
私は、前みたいに、うまいこと嘘をつけなくなっていた。
妹も、もうとっくに、前みたいに小さな泣き虫じゃなくなっていた。でも、きっと心の中はぐちゃぐちゃなのだろうと思った。あの頃みたいに、泣き叫んでも、何もならない、私にはどうすることもできない問題と、一人で戦っていた。
お金持ちの男の人と結婚して、専業主婦になりさえすれば、綺麗な家に住んで優雅にママ友達とランチをしてとにかく幸せになれるから何も考えるな、と、キッパリ言い切ることが出来ない私は、中途半端な嘘つきだと思った。
大開口が自慢の大きな窓は、この季節になると結露がものすごい。
私は一日に何度、この窓を拭いているかわからない。ちゃんと水気をとらなければ、夫のお母さんが買ってくれた30万円のカーテンにカビが生えてしまうかもしれない。
窓のしずくは、拭いても、拭いても、垂れてくる。まるで涙みたいに。
拭いても、拭いても……。
去年の夏頃、実家近くのコーヒー店に行った。
メニューも内装も、この通りで。長靴のクリームソーダとか。
シロノワールっぽいのもある。
このジュースの入れ物も、うん。
とにかく、すべてが、コメダすぎた。
そういえば、コメダといえば、はてなでのみ話題になった新聞紙のホッチキスだ、と思ってそれも撮ったりしたけど、あとから見返したらホッチキスはホッチキスであの位置にとめる他無く、何の面白みも無い写真だったから消していた。
https://more-news.jp/article/detail/10837
年末のニュースで、ここがこんなことになっているのを知った。
この冬休みにも帰省したので、もういちど店に行ってみると、いかにもな突貫工事で、なんとかコメダ感を無くそうとしていた。
「笑えるよな、ほんま」
ホットコーヒーを飲みながら、夫はあきれたような、小馬鹿にしたような態度で、そういった。
笑えるぐらい、バカ。
というこの言葉のニュアンスには、ド田舎でクソださい、という、この土地そのものへの嘲笑も含まれていることを私はよくわかっている。
彼はよくこうして私の実家のある和歌山を嘲る。それは二人の間のネタみたいなもので、私がそれに対して「もー、うるさいなあ」と怒って、ごめんごめんと笑いながら彼があやまるまでが1つのお約束みたいになっている。
夫自身本心で、そこまでバカにしていないにしろ、和歌山を決して好きではないというのも私は知っている。
彼は、淡路島の海を見て「海は良い、老後はこういう場所で暮らしたい」とか言うくせに、海水浴場に程近い私の実家が空き家になっても、あんな所には住みたくない、とキッパリ言うのだった。
そしてまた、私自身もまた、こんな所には住みたくない、と思っているのだった。
私が和歌山を出たのは、数学が出来なかったからだ。
国語の偏差値は、まあまあ高かった。校内2位って私すごーい。ていうか高校生の頃の模試の結果なんかよく残してるよな。ミニマリストに卒倒されそう。
まあとにかく国語が得意だった。特に作文。小学生のころから私は嫌な子供で“こういう文章を書けば大人が喜ぶ”という型みたいなものをわかっていた。たとえそれが嘘であろうと、書けばほめられた。
あれは小学三年生の頃だと思う。和歌山の青岸エネルギーセンターというゴミ処理場の見学に行ったとき、感想文を書いた。
内容をかいつまんで言えば『粗大ゴミの中にまだ弾けそうなピアノがあって、それが潰されるときに、ピアノが泣いているみたいな音をたてて壊されていった、私達はもっと物を大切にしなければいけない』みたいな主旨の作文であった。
しかし実際はピアノはそんな音をたてていなかった。
誰もそんなシーンを見ていなかった。
ただ、ピアノがゴミ処理場にあったのは覚えている。それで、『泣いたピアノ』なんてわざとらしいタイトルをつけたらなんか社会に問題提起とかできるんでしょ、と思ったのだ。
浅はかな小学生の考えだが、事実世の小学校にはそんな浅はかな小学生の文章を評価してくれる先生が大勢いたのだった。
それで高校生になっても当然現国は得意で、古文も現国の読解力の応用でなんとか乗りきったのだが、子供の頃から算数が嫌いだったのが、成長するにつれ壊滅的な状況になり、数学ⅠAはまだ偏差値は40ほどあったのかもしれないが、ⅡBとなると、完全に私の脳みそは崩壊した。
200点中、12点である。
100点換算で6点の答案用紙。リアルのび太だ。そもそもマークシートなのに12点って逆にすごくないか?確率を超えたな、私のアホさ。(数学のマークシートって多分組合わせで全部合ってないと点数貰えなかった記憶があるから12点もあり得るのかな)
私は、親の期待に応えたかったので、何度も父親から「頭の悪いやつだ、もっと勉強しろ、自分はもっともっと努力した、本当にお前は出来損ないだ」と詰られながらもけなげに数学をがんばってなんとか地元の国立大学を目指したかった。
しかし、国立大学に行くならば、五教科を平均値以上とらなければいけないのだ。
五教科で平均値以上……。今も、私は、国立大学に行く学生さん達を心底尊敬している。そして、自分の娘には、そこまでのことを求めるつもりはない。
そのぐらい、国立大学入学というのはスーパーマンでないと実現し得ないことなのだと思っているのだ。
高二の途中まで悪あがきで数学と生物を頑張ってはいたものの、限界を感じ、私学文系に転向した。遅すぎる決断だった。
そこまで国立にこだわることなんてなかったのだ。
なんで、あんな父親のために必死になっていたのだろう私。
そんなこんなで、県外Fランクの私大に入学。県外の夫に出会った。結婚した。県外に出た。だいぶざっくり書いた。
もし、私が数学の点数も取れていたなら。
国立大学に、和歌山大学に行けていたなら。
そしたら、和歌山の人と付き合って、和歌山で結婚していたかもしれない。
そしたら、コメダすぎる珈琲店が身近にある生活をしていたかもしれない。夫が笑うから喋らなくなった和歌山弁を流暢に話しているかもしれない。
……まったく、興味ないな、そっちの未来に。はー、和歌山出て来て良かったわ。数学12点で良かったわ。普通にコメダ珈琲行くわ。
ただ、数学を、きちんと理解できる脳みそを持った私なら、知ることができたであろう世界、数学が解るからこそ、見えたであろう世界には、今もとても興味はある。
興味があるけれど脳がついていかないのだ。
昨晩娘に読んであげた絵本によると、アルキメデスは全宇宙を埋め尽くす砂粒の数を全て数えても、1のうしろに0が51個以上つかないことを計算したとか書かれていて、凄い壮大なロマンを感じたものだった。
宇宙の砂粒の数て。
アホなん?と思う発想、それを数式できっちり解く方法が、この世には存在するのだ。どんな式になるねん。何から始まるねん。めちゃくちゃ興味は、ある。
でも私は正真正銘アホな発想はなんぼでも出来ても、アホはアホどまり。コメダもどきはコメダもどき、なのだった。
私、菓子をわりと頻繁に作る。
特に簡単な焼き菓子。マフィン、パウンドケーキ、シフォンケーキ、クッキー、などなど。
そしていつも思うのは「ああ、今回もまた、違うな」ということ。
いやべつに海原雄山みたいに至高の焼き菓子を求めて東西新聞の記者と争ってるわけでもなく上手く焼けなかったら菓子を割ることももちろんない。けれど、私が作りたかった味には、決してならないのだ。
私が作りたいのは、母が作ってくれたお菓子の味、特にクッキーだ。
同じものを作りたくて、母がいつも使っていた本も、譲り受けた。
昭和50年発行。
この時代の料理本って、写真の食器とか食品の盛りつけ、テーブルメイクが今と全然違うから、味わい深いので好きなんだけど、フルカラーじゃないし、字だけのページも多いから、難易度がやや高い。
で、同じレシピ本で作っているのに、作っても作ってもなんかこう、私の味は母の作るそれとは違うのだ。
そして、この冬実家に帰ったときに、気づいたのだ。
ひょっとして、レシピではなく作り方、特に使う機械の条件が違うからなのではないか、と。
実家で、約40年のあいだ、使われ続けている家電がある。
それがこのオーブン、東芝HGR-820だ。
母が嫁に来たときから既にこれがあったらしいので、37年は働き続けているこのオーブン。
考えてみると、すごいことなのではないか。
いつも実家にいるとき、当たり前のようにこれを母が使っていたので今まで気づかなかったけど、40年近く現役で使われている家電って、やばくないか?
そして、このオーブンが、最終的な味の決め手になっているのかもしれない、そう思ったのだった。
そこで、私はいつものようにクッキーを作ってみることにした。「いつものように」と書いたが、いつものようにはいかなかったのが、40年前のオーブンであった。後に詳しく書く。
尚、クッキー型は、これまた記憶する限り35年前のもので、母が私によく焼いてくれたクマさんや飛行機などの可愛いプラスチック型を使うことにした。
幼い頃の私は、このクッキー型を見るだけでも楽しい気持ちになったものだった。母とは、よく一緒にお菓子を作ったな。
父は母にも私にもとにかく怒鳴り付けて、おそろしい存在だったから、私にとっての母は本当に優しくて救いだったし、こうして焼き菓子を二人で作っているときは、甘い香りが家中を包んで、幸せな気持ちになれたものだった。
あと娘が裏返しに着ている黄色のセーターは昔祖母が私に編んでくれたものであり、これまた古くさいことこの上ない。
ではさっそく焼いてみる。
まず、焼き菓子作りで重要なのは、オーブンの余熱である。
しっかりと余熱しておかなければ、生地内への火の通りに時間がかかり、うまく膨らまなかったり生焼け、焦げの原因になる。それはどんなオーブンでも同じ。
ただ、この昭和のオーブンは、現在では考えられない仕様になっている。それがこの目盛部分。
よくみてほしい、何かが、足りない。
そう、タイマー機能がなのである。
つまり『時計は各自、自己責任で確認しときや、わいは焼くだけやからな!』ということである。
あと、温度設定。
うわ、すっごい、ざっくり。
すごいざっくりしてるやん、六色の暖色系目盛りと七段階の数字がかいてあるけど、厳密に何度か、わからんやん。お菓子作りって、繊細な作業やのに、これは辛い。
そして、クッキーを庫内に入れて、はい終わり、あとは15分後また取り出します、というわけにはいかないのが、このオーブンの大きな特徴なのだ。
焼き始めて5分後、中を確認する。
すると、裏面端にこのような焦げが出来てしまっているのだ。
表面や真ん中は、まだ生白い。すなわち、クッキーを焼き上げるまでに、オーブンの前を離れずに、焼き加減を確認しながら、何度か裏返さなければいけないのである。これはもう、かなりめんどうなことである。
ここまで焼くのに、2、3分おきに5回ぐらい一枚一枚すべてひっくり返した。
昭和の家電で焼く、昭和の型のクッキー、完成。(不格好な言い訳としては、このプラ型、浅くてそのわりに模様がこまかくて抜きにくいんだもの。)
もう、食べる前から、わかっていた。
ああ、この香りだったな、って。お母さんが焼いてくれたクッキーの香り。部屋中をつつむ、甘い香り。
一口食べてみる。私がSHARPのヘルシオで焼くクッキーとどう違うかは、完全にその香りだということを、今回認識した。
おそらく、注意していないと丸焦げになるような火力で、いちいち返しながら焼く作業により、独特の香ばしさが出るのだろう。
こちら私がいつもお菓子を作るときに使っているヘルシオ。これも9年前の新婚時代に買った物なので、全く最新ではないものの、40年も前のものに比べたら、別次元の便利さを備えている。
もし、これが炊飯器や洗濯機など、毎日使う家電だったら、その不便さには母も耐えられないだろうと思う。
それに、機械の方も365日40年間フル稼働となると、さすがに寿命が来ていたかもしれない。
ところが、これはオーブンなのである。
出番があるのはケーキやクッキー、そしてミートローフを焼くときのみ、年に数回程度なのだ。そうなると、そのときは面倒だなと思っても「まあ、使えるしな」というところに落ちつくのである。特に二人の娘(私と妹)が大きくなるにつれ、母がお菓子を焼く頻度もぐんと減った。いまだに家族の誕生日にはそれぞれにケーキを焼いているらしいけれど。適度に休ませつつ、手入れをしながら適度に働かせ続けていることが、現在もこのオーブンが健在である理由なのだと思った。
「ずっとここ(オーブン)の前に立っとかなあかんから、ほんまめんどくさいわー。せやけどこれ、さすが昔の日本製やね、精密というか全然壊れてくれへんから、買い直されへんやないの」そういって、母はよくお菓子を焼きながら苦笑していた。
なるほど、made in Japanって、やっぱすごいんだな。
余談。
娘とクッキーを焼く楽しさは、型抜きというか、抜かれた外側の生地、その形がさまざま違って面白くて、綺麗に抜いた方の生地よりむしろこっちの「側」が楽しみのメインであるかもしれない。
というのも、毎回その「側」の形が違って、これは恐竜に見えるだとか、こっちはゴリラのうんこだとか、ヘビだとか、そういう話をしながら作って食べるのが、楽しいのだ。
「美味しい」って気持ちとその記憶は、どこか不思議だ。味そのものにプラスして、そのとき、誰と、もしくは一人で、どんなふうに食べる(飲む)かという、味と全く関係のないところもわりと深く作用する。
私のなかでは、きっと、東芝HGR820で作ったクッキーに勝るクッキーには、出会う事はもう無いような気はしている。
それはとても、幸せなことだと思った。
ここ最近、実家に帰るたびに、庭の花や木が減っていくのを感じる。
一昨年咲いた木蓮も、去年の春は見られなかった。20年以上植えられていたアラスカ杉や、バラのアーチはいつの間にか無くなっていた。
母が料理のスパイスによく使っていたガレージ横の月桂樹も葉が変色してきている。
毎年セミが脱け殻をつけるキンモクセイとロウバイの木は、かろうじて健在であるが。
この家全体が、そこに住む人間の老いを視覚化している。
私は、うちの家、この実家のデザインが好きだ。
ミサワホームのO-Ⅱ型。おそらく、日本で一番売れた住宅である。
ミサワホーム公式ホームページから写真を拝借した。これがO-Ⅱ型(※厳密にはこの写真はO型。外灯の丸いライトが型番を表す)という住宅で、五万戸の販売実績があるという。日本全国色んな場所で、今もこの型の住宅を見ることができる。それほど、売れた家なのだった。
父は旧帝大を出て銀行に就職し、すぐにこの家を買った。1980年のことで、なんと当時の住宅ローン金利は7.15ほどであったというから、恐ろしい。その分貯金の利子も多かった時代ではあるが、それにしても今のフラット35のような10年税金優遇なども無い時代、当時のサラリーマンの抱えたローンの重さに震えそうになる。
ミサワホームO-Ⅱ型は、建物内だけで床面積が43坪もある広めの間取りだ。
一部屋一部屋が大きく、2階に4部屋(うち3つが8畳、1つは6畳)、1階にはリビングと和室がある。そこへ、車2台分の駐車スペースと小さな庭のある家が私の実家だった。
決してお金持ちの豪邸ではない。80年代の堅実なサラリーマンが、こつこつ働いて、建てられる家。手の届く夢。でも、本当に夢があるというか、なんだかワクワクする造りの家で、たとえば3階ロフト部分へのぼる木製の梯子だったり、吹き抜けの階段など、子供のころの私には、それらは、ごっこ遊びの最高の舞台となった。
そして、玄関を開けて真正面に見える大きな柱。この柱の頂部は3階ロフトにまで繋がっていて、まさに「一家の大黒柱」という佇まいだったのだ。
しかし、この大黒柱、実は中は空洞で、単なる飾りというか、心の拠り所としてデザインされたものだそうで、実際は家屋を物理的に支えているわけではなかったのだ。それを知って少しショックだったが、精神的な意味の大黒柱がある家、というのも、なかなか素敵だな、と今は思うのだった。
少し前、父が急に入院することになった。心臓が炎症を起こし、そこに水が溜まったとかで、心膜炎というらしい。
突然その知らせを聞いたとき、色んな思いが頭をよぎった。
私は、父が嫌いである。
はよ、死ね、と、何度思ったかわからない。
それは父の子育て、特に私に対する勉強面での過剰な叱責により、人格を否定され続けた結果当然の心理であると言える。
阪大出身の父は、私にも同じ勉学の才を期待し、それを私は答案用紙で裏切り続けた。テストで悪い点を取るたびに露骨に失望を露にし、大きな声で私を怒鳴りつけた。
親の期待にそえなかったという経験の積み重ねが、どんどん私自身の自己肯定感を奪っていった。
結果、こうして何事にも消極的で、自分に自信のない私がいるわけだ。
自分に子供ができて、尚更父が昔私にとった行動を許せなくなった。どうして、こんな大切な存在に対して、そんな酷い言葉を投げつけられたのか?その想いをいっそう強くした。
私は、父とは違う方法で、真逆の方法で子育てをする。この子の努力を、絶対に否定したりしない。そうして、この子を一人前に育て上げるんだ、見てろよクソ親父。
父は本当に勝手な人間で、自分がどれだけ私に酷い事を言ってきたか全く忘れた様子で、結婚して和歌山を離れた私にしょうもないことで電話やメールをよこす。
私は、父からの電話にはあまり出ないことにしていた。メールも、ほとんど返していない。
『庭の月下美人が咲きました。とても綺麗です』
こんなメールが来たこともある。白く美しい花の画像が添付されていた。
無視した。何年に一度しか咲かない?知ったことか。
秋ごろ何度も何度も電話が来るので何事かと思って出てみたら『伊勢海老が串本で美味しい季節になったら、皆で行こら』とのことであった。
うちの娘はエビが嫌いだ。どうして父の感覚はこうもズレているのか。
そう思っていた矢先のこと。
久しぶりに電話をした声は、弱々しくて、聞き取れないほどだった。
今まで聞いた事のないような、振り絞るような、か細い声。
もう、私を怒鳴りつけたあの声ではなかった。
あれだけ人を傷つけておいて。そのことの重みもわからないまま、また、勝手に、今度は死のうとするのか。このまま居なくなるのか。どこまで勝手なんだ、この人は。本当に、勝手すぎる。
腹立たしく、そして、涙が、止まらなかった。
その後、早い段階で入院出来たこともあり、幸い父は回復した。
いまはまた、相変わらず勝手でうるさい。
伊勢海老の季節は過ぎようとしている。月下美人の鉢植えは、この家から消えた。そしていずれ、父もいなくなる日が来る。そんな日なんて来ないと思っていたけど、そうじゃなかったことに気付いてしまった。
だから、もうあと何回帰るかわからないけど、この家と、父と過ごす時間、もう少しだけ大切にしてみてもいいかな、と、最近は、思う。
あと、マンションに住んでみて、今は戸建てよりマンションが断然良いと思っている。花の世話も玄関の掃除もセールスマンを追い払うのも全部管理会社がやってくれるのだ。
確かにマンションは管理費の積み立てという問題もあるが、実家は築36年のうち、今まで三度の外壁、屋根工事と一度大きなリフォームをして合計一千万程の支出があったので、出ていくお金だけ見ればトントン。むしろ地価の高い都市部駅前マンションのほうが30年後の資産価値はずっと高い。まあ、阪神地域のマンションと大阪まで一時間以上かかる田舎の戸建てなんて、比べても意味はないのだけど。
※ミサワホームのO型など一見してわかりにくい型番の違いは、外灯で表されていて、それも面白いなと思う。実家はO−Ⅱ型だから、アルファベットのOを表す丸いライトの上に、二羽の鳩が乗っている。Ⅱ型だから二羽の鳩。このシリーズで、Aの形の外灯もあるし、鳩の数が違うバージョンもある。本来の外灯の役割プラス、斬新な用途を発想をしたなと感心する。
あと最近ミサワホームで面白いと思ったのはこのミッフィーちゃんの使い方。
https://togetter.com/li/1069706
内装見本じゃ無いだろうよこんなに真っ黒なのに、とは思ったけど(どなたかがツッコんでましたが)まあ、こう言う話題になるような遊び心のある素材見本はいいセンスだなあって思う。