珍獣ヒネモスの枝毛

全部嘘です

今も彷徨う歩兵第五連隊の君へ

 チャンネルNecoで放送されていたドキュメンタリー八甲田山を見た。

 

 

 1977年の映画八甲田山は、私の祖父が好きで、VHSが実家にあったと思う。

 こちらの作品は、ドキュメンタリーなので、実際の生存者である小原忠三郎伍長ご本人の肉声録音や、銅像にもなった後藤伍長のご子息後藤信一さんへのインタビュー、地理、気候や人間工学など様々な観点の科学的な検証もふまえ、映画としての見せ場も多い傑作となっている。

 

 八甲田山雪中行軍遭難事件とは八甲田雪中行軍遭難事件 - Wikipedia世界最大級の山岳遭難事故でである。

 

 「こんな天候で登山したとかバカじゃねーの?雪山なめんな(笑)」

とか

 「指揮官が無能の一言だよ、判断力なさすぎ。初めの吹雪で引き返せよ」

 なんて声も多数ある。

 

 しかし、私はこれを無鉄砲な、単なる愚かな軍隊の失敗とは思えなかった。

 

引き返さなかった山口少佐は悪なのか

 この事件を語る時に、キーパーソンとなる人物それが山口少佐である。
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 もう一人、神成大尉という人物もこの兵を指揮する立場ではあったのだが、実質第五連隊の総責任者は山口だった。東京育ちで、雪山についての知識と経験は素人。

 そして彼が、この「賽の河原」(嫌な名前の河原である)で下した「訓練続行」の決断が、のちに199人の命を奪う遭難事故の引き金となるのだ。それは確かなことである。

 

 だったらやはり、山口少佐が悪いのではないか?そう思われるかもしれない

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  そのまま、引き返していたらどうなっていたか。

 おそらく吹雪にはあうものの、確実に199人もの死者をだすことはなかっただろう。

 賽の河原で初めの吹雪にあったとき、山口は少し迷った(という描写がある)。しかし、隊員の中にも続行を希望した者は多かった。

 

 「ここまできて、我々軍隊のメンツが立ちません」

 「こんなところで引き返したら、帝国ロシアと戦えるのでしょうか」

 「笑いものになるのはいやです」

 「困難を克服することこそが美徳」

そんな部下の声や、心の中のプレッシャーが山口にはのしかかった。

 

 日本男児なら、死を恐れるな。

 まだちょんまげ頭の侍社会から35年しか経っていないこの時代に、こう決断してしまうのが、そんなにおかしいことだろうか。非難されることなのだろうか。
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 実は、1902年のこの日の天候は、日本の観測史上いまだやぶられることのない、数世紀に一度の寒波が列島を襲った日でもあった。

 

 しかし、そんなことは、百数十年経たなければわからなかったことなのだ。

 もともと、この訓練は、気候の良い時なら半日でたどり着けるコースを歩くもので、最終目標も決して山頂などではなく、青山市街地から峠を越えた先にある田代温泉だったのだ。こんな近場で、おめおめと引き返して、恥をかくわけにはいかない……。猶更そう思ってしまうのも大いにうなずける。

 

 あの日がどれほど地獄だったのか、それは結局のところ、大勢が死ななくてはわかりえなかったことなのだ。

 

 

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  彼らは結果的に、その半日で行けそうな距離を、三日かけて歩き続けることになる。

 

 そのほとんどを、同じところをグルグルとまわり続けるていただけであったのは、なんと残酷なことか。

 隣に居る者の姿すら、完全に真っ白く塗りつぶされ何も見えない猛吹雪。顔を、皮膚を切り刻むように吹き付ける雪のつぶ。

 視覚感覚が失われた時、全ての人間が例外なくリングワンダリングという行動をとってしまうという実験結果がある。同じところを、ぐるぐる回る軌道を描くそうだ。

 

 そして寒さは人間の判断力を奪う。体温の低下は、たった2度で精神をむしばむ。


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  体感温度マイナス54度。この環境で、山口少佐も神成大尉も、意識障害が起こりかけていた。

 

「天は我々を見放した。先に死んだ者とともに我々もいこう…!」

 

 神成大尉のこの言葉で、ほぼ全員が絶望に崩れ落ちてゆくシーン。

 小原伍長の肉声とともに再現されるこの場面が、もっとも印象に残っている。
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 僅かに残っていた心の中の希望を絶たれた時、気力だけで立っていたその足は、力をなくすのだと思った。
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  そして彼らは救護班の幻覚を見る。援軍へ、ラッパを吹く。そのときのことを、小原さんはこう振り返る。
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いやな音。
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 もし、あなたがこの先、マイナス何十度の極寒のなか、ラッパを吹く機会があるとしたら、絶対に吹いてはいけない。

 

 金属製のラッパに息を吹き込んだ瞬間、唇が張り裂け、激痛にさいなまれる。このラッパを吹いていた兵士は、唇が凍傷になり、その後、亡くなるのだ。

 

 ここまでの地獄絵図を見て、まだ山口少佐が悪かったと思う人もいるのかもしれない。でも私は、到底そんな言葉を投げつけることができない。

 

 確かに彼の判断が多くの人々の死に結びついてしまった。しかし、彼が戻っていたところで、彼の悲劇は変わらなかったことも我々は容易に想像がつくのであった。

 

 責任者とは、本来、こういうものなのである。今回の件に関しては、本当に不運で気の毒なことであるが、山口少佐だけに焦点を絞ってみてみると、行くも地獄帰るも地獄であることは、もう初めから決まっていたのである。

 

「引き返した山口少佐」という英雄について考える

 私は、この映画を見て、この世にはきっと、無数の名もなき「引き返した英雄」があふれていたのだろうな、と気づいたのだった。

 つまり、賽の河原で計画中止の決断をした指揮官が、きっといるのだろうな、ということ。

 その英雄は、名を残すどころか、「腰抜け」だの「あの人が怖じ気づいたせいで、メンツがたたないよ」だの今も部下から言われているのかもしれない。誉められるよりも、その可能性のほうが高い。

 

 しかしそのひとが「前に進まない」「挑戦しない」というそれも一つの大きな勇気ある決断をしてくれたおかげで、助けられた何人もの人生、繋げられた多くの命があるのではないか、と思ったのだ。

 

 それは雪山だけでなく、会社組織かもしれないし、政治の場でも起こっているのかもしれない。どうか責任者以外の本当に名もない者は、その党首の勇気ある決断に泥を塗るようなことをしないで欲しいと思った。

 

 そして今もこの国のどこかで、日本男児らしく花と散ることを美徳とし、大事故へ突き進もうとする第五連隊もまた、いるんだろうなとも思った。

 

 何度も書くが、引き返さなかった山口少佐を私は貶めたいのではない。若干24,5歳の彼の苦悩を、誰が責められよう。なんとか助けられたその次の日、謎の死を遂げた彼のことを。

 彼がもし賽の河原を越えなかったとしても、部下の中には少佐の判断をあざ笑うものが出てきただろう。サムライとしての誇りはないのかと、責める者も出ただろう。

 

 頑張ることが大切。耐え忍ぶことが美しい。結果はどうあれ挑戦、努力することに意味がある、やる気さえあればなんとかなる……

 

 あの当時、あのとき、山口少佐の心を本当に追い詰めたものは、今現在もこの国に根深く残っていると、私は思っている。